じじぃの「人の生きざま_58_岸・恵子」

岸惠子 - あのひと検索 SPYSEE
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岸惠子 動画 YouTube
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人間椅子悪魔の手毬唄 Ningen Isu - Akuma no Temariuta 動画 YouTube
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岸惠子

『相棒』 第15話 密愛岸惠子と水谷豊

あさイチ 「プレミアムトーク 岸惠子 2015年6月26日 NHK
【司会】井ノ原快彦、有働由美子 【ゲスト】岸惠子
女優の岸惠子が書き下ろした小説「わりなき恋」。69歳の女と58歳の男の恋を鮮烈に描き、25万部のベストセラーとなっている。
82才の岸恵子が「わりなき恋」は大人の恋だが、「純愛にも感じる。若い人にも読んでほしい」、「女は50、60歳からよ」と語った。
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/
サワコの朝 2015年6月13日 TBS
【聞き手】阿川佐和子 【ゲスト】岸惠子(女優)
18歳でスクリーンデビューし、その2年後に主演を務めた映画「君の名は」をはじめ、数々の名作に出演。
日本映画界で絶大な人気を誇る女優となった岸は、24歳でフランス人映画監督のイブ・シァンピ氏と結婚。大スターとして扱われていた自分に“一人の女の子”として接してくれたイブに惹かれていくが、当時の日本では、民間海外旅行が禁止されていたためフランスへ渡り国際結婚をするということは相当な覚悟が必要であった。
記憶の中できらめく曲
歌:さくらんぼの実る頃
フランスのシャンソンを代表する「さくらんぼの実る頃」を。この曲の歌い手であるイブ・モンタンへのインタビュー時に一緒に歌ったという貴重な思い出を振り返る。
40代で執筆活動を始めた。書くことで落ち着く。「わりなき恋」は80歳で書いた小説。主人公は私。70歳の女性が年下の男性と恋をする。抱き合う。そういうことを書きたかった。
今元気になれる曲
歌:愛の讃歌
今心に響く歌。愛について教えてくれる曲。エディット・ピアフ。ピアフがボクサーが大好きになり飛行機で来て欲しいと頼んでその飛行機が墜落してしまった時に歌った曲「愛の讃歌
すぐ恋をしてしまう。望みが高い。立ち振る舞いがきれいな人が好き。現在いない。
http://www.tbs.co.jp/program/mbs_sawakonoasa.html
岸惠子 ウィキペディアWikipedia)より
岸惠子(1932年8月11日 - )は、女優・文筆家。神奈川県横浜市神奈川区生まれ。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業。 血液型はA型。身長161cm。体重47kg。舞プロモーション所属。
【来歴】
1945年5月の横浜大空襲で被災。
高校在学中に小牧バレエ団に通う。
もともとは作家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た「美女と野獣」に魅せられ、映画に興味を持ち松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎監督にスカウトされ、大学入学までという条件で「我が家は楽し」に出演したのを契機に映画界入り。
・1953年 - 1954年:映画「君の名は」3部作が大ヒットする。以降、松竹の看板女優として絶大な人気を誇った。
・1954年:有馬稲子久我美子とともに、「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
・1956年:フランス・日本合作映画「忘れえぬ慕情」に出演する。
・1957年:「忘れえぬ慕情」の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピ(Yves Ciampi)と結婚。フランスで、作家・川端康成の立会いのもと挙式。以降、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた。この頃に、サルトルボーボワール、マルロー、コクトーらと親交を持つ。
・1963年:1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ(Delphine Ciampi)を出産。
・1975年:イヴ・シャンピと離婚。娘・デルフィーヌの親権は岸が持つこととなる。
・1996年:国連人口基金親善大使に任命。
スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜】
スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜 Qui etes-vous, Monsieur Sorge? (日本&フランス合作映画 / 1961年 / 共演:マリオ・アドルフ)
【著書】
・「わりなき恋」(幻冬舎、2013年4月10日)
・「巴里の空はあかね雲」(新潮社 のち新潮文庫)文芸大賞エッセイ賞。
 自らが朗読したカセットブックも発売された。録音後、「さすがに、自分のことを読むのは恥ずかしかったわ」と語っている)

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文藝春秋 2010年8月号
的中した予言50 岸惠子 【執筆者】白井佳夫(映画評論家) (一部抜粋しています)
もう大人の言うことはきかない
昭和20年5月29日の、アメリカのB29爆撃機の編隊による横浜大空襲を、12歳の少女は街を見下す公園の松に木に登って、目の当たりにした。そして「今日で子供をやめた」「もう大人の言うことはきかない」と、心に決めたという。
女優岸惠子の、人間開眼である。敗戦後に詩人ジャン・コクトー監督のフランス映画「美女と野獣」を観た彼女は、その不思議な映像美に失神するほど幻惑され、松竹大船撮影所に映画の撮影というものを見学しに行った。そして「ちょっと映画に出てみませんか?」と声をかけられたことをきっかけに、映画「安城家の舞踏会」に、後ろ姿だけの出演をする。それから、プログラム・ピクチュアに次々と出演させられ、黒澤明監督がこの撮影所でつくった大作「白痴」にも、パーティの場面にちょっと出た。そして松竹大船調の大メロドラマ「君の名は」のヒロインを演じてスーパースターの地位を得る。時に21歳であった。
やがて彼女は、久我美子有馬稲子と組んで、文藝プロダクション・にんじんくらぶを結成、映画会社に縛られたスターの地位の自由化を果敢に実践した。彼女のその後の行動は、日本人女性の枠を大きくはみ出してゆく。
そして、フランスから日仏合作映画「忘れえぬ慕情」を監督するためにやってきたイヴ・シャンピと結婚。24歳の時だった。
そのため「戦場にかける橋」やマーロン・ブランドと共演の「サヨナラ」「しのび泣き」といった外国映画への出演のオファーは、断念せざるを得なかった。
一時、日本に帰っていた頃、木下恵介監督の「風花」の信州ロケ中、善光寺平の古本屋で発見したリヒアルト・ゾルゲの獄中日記にショックを受けた彼女は、その映画化を夫に提案する。
当時の畫句で5000万円もの資金をフランスで調達したイヴ・シャンピ監督は、再び松竹との合作という形で、岸恵と西ドイツの俳優トーマス・ホルツマンを共演させ、「スパイ・ゾルゲ真珠湾前夜」という映画を作った。そして松竹本社の試写室で、その最初の試写会がおこなわれた。
それを見た時、彼女は顔じゅうを涙で濡らして、映写室のおじさんに、「恵子ちゃん、自分の映画を見て、そんなに泣けるもんかね」と声をかけられる。しかし、実は、それは感動の姿ではなかった。夫イヴ・シャンピがフランスで完成させた、「ゾルゲよ、あなたは誰?」という最終編集版と、日本版とは「魂がちがってしまって」いた。
「日本版はメロドラマのごとくなってしまって」いたのだ。その時から49年間を経た今も、彼女はそのことを悔しがる。「フランス版はフランスで大ヒットしました。スターリニズム時代のソ連では、公開を拒否されましたが、フルシチョフの時代になって21館で上映され、闇の切符が出た位に、超満員でした。ゾルゲによく似たトーマス・ホルツマンは花束を贈られ『スパシーバ』の完成に包まれ、私も涙が出ました」と。
そして、今でも、その映画のプリントを探し続けているという。
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その後の岸惠子は、女優として、さらにエッセイストやルポライターや作家として、テレビ・ドキュメンタリー番組のキャスターとして、国際的で先進的な優れた仕事の数々をこなしている。「今日で子供をやめた」「もう大人の言うことはきかない」という決意は、形を変えジャンルを越えて、今なお彼女の中に一貫して生きつづけているのである。

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