じじぃの「人の死にざま_700_Y・モンタン」

枯葉 イヴ モンタン 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1lFrclNVnVU
Yves Montand - Les Feuilles Mortes 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JWfsp8kwJto&feature=list_related&playnext=1&list=AVGxdCwVVULXdKzqh-_H94R_shFtlFenxT
Yves Montand-Sous le CIEL de Paris 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ceFxrmQhRAg&feature=related
イヴ・モンタン ウィキペディアWikipedia) より
イヴ・モンタン1921年10月13日-1991年11月9日)はイタリア出身でフランスで活躍した俳優・シャンソン歌手。本名:イーヴォ・リーヴィ。イヴ・モンタンという芸名は、子供の頃、戸外にいた彼を母親が階上から、「イーヴォ、モンタ!」(Ivo, monta!, イーヴォ、上がってきなさい!)と呼んでいたことにちなむという。
【来歴】
農民の子としてモンスンマーノ・テルメで誕生。母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にエディット・ピアフに見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いた。
1945年に映画デビュー。1946年に出演した『夜の門』で、主題歌の「枯葉」を歌ってヒットさせた。
1951年に女優のシモーヌ・シニョレと結婚。2人はいくつかの作品で共演している。夫婦でフランス共産党の活動に参加していた。
1961年(昭和36年)1月に来日している。

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『音楽という戯れ』 相沢啓三/著 三一書房 1991年発行
うたう葦 ●イヴ・モンタン (一部抜粋しています)
イヴ・モンタンのステージを見るのははじめてだった。舞台の中央手前のマイクには黒い帽子がかけてあった。コンボ編成のバックミュージシャンが位置につくと紗幕がおりて、黒い帽子だけが残った。「歩きながら」の前奏とともに黒いスラックス、白のシャツに黒いヴェストのモンタンが現れて、帽子を手にとった。映画で見慣れているはずなのに、わたしはかれが思いのほか大柄でがっしり見えた。それでいて身のこなしは軽々として、よく訓練されたヴォードヴィリアンの風情があった。いつの間にこんなにモーリス・シュヴァリエに似てきたのだろう。しぐさが、うたの見せ方が。
モンタンはもっとしなやかな声で語りかける歌い手だという印象をもっていたが、ステージはきびきびとリズム感にとんでいた。大きな身体がよくリズムにのり、28曲を休みなくうたいぬき、60歳だというのに足は高々とあがった。少年時代フレッド・アステアにあこがれただけのことはある。そして大きな手が、決して目ざわりにならない動きで、リズムをとり表情を変える。若い時のジャズっぽさが、老年になってもう一度あらわになり、それが13年間ステージから遠ざかって映画俳優の仕事が主になってもスタイルをくずさずにいられる保証にもなり、政治的・社会的な発言が注目される名士になっても官能性を失わないでいられる技術的な基礎にもなっているのである。
イヴォ・リヴィが2歳のとき、社会主義者の父親がファシストと衝突して生まれ故郷のイタリアに住めなくなった際、一家が最初の計画どおりアメリカに移住していたら、いまのイヴ・モンタンは生まれていなかっただろう。その代わり、フランク・シナトラを脅かすジャズ・シンガーになっていただろう。
しかしポピュラリテにおいてはかわりないとしても、モンタンをモンタンたらしめたモラリテをかちえたであろうか。かれはファシズムのフランス人として時代に結びつけられ、時代の苦難を代弁する役割をになった。マルセーユ育ちのジゴロとなってもよかったのだし、その傾きが本当はかれの魅力の源であるばかりか、そのようなかれさえもその時代の愛と苦悩をうたいあげたということで信頼をよせられたのだ。映画「恐怖の報酬」で肉体をさらしたかれには、その後の映画歴ではイヤミになった左翼的もっともらしさを免れて、ジゴロの地が見えてきた。いささか男臭すぎるきらいはあったが。
或る時代と共寝したからこそ、或る時期、かれは歌手としては遠くなっていた。
わたしにとってイヴ・モンタンは、1955年11月14日に買ったEP盤の「枯葉」「漕役刑囚の唄」のカップリングが最初で1961年1月14日に買ったEP盤「桜んぼの実る頃」が最後だった。1871年パリ・コミューンにまつわるこの唄を偏愛して、同じ由来をもつ「インターナショナル」の上におこうというのが、当時もいまもわたしの立場なのである。モンタンに歌唱の巧みさとともに演出の卓抜さは、そのEP盤のB面「解放の唄」にあって、これはまさにラジオ・ドラマの傑作ともいえるのだ。ナチス・ドイツが軍歌をうたいながら行進する靴の音に口笛と「友よ」のよびかけがかぶさり、パルチザンの唄に軍靴の響きはのみこまれ同化してゆく。侵略の側にくみこまれた若者たちと解放の側にくもこまれた若者たち。2つの青春のせつないせめぎあいが、1980年代の現在になって聴きとれることである。
かって乏しい時に愛があった……。
ふりかえってみるとモンタンの絶頂期は、わたしがモンタンを捨てた頃だったのではないだろうか。61年吹込みの「何を持っていなくても」。62年吹込みの「男の生き方」にしても、軽やかなリズム感、朗唱にこめた音楽性は素晴らしい。いまでは回顧的になるけれど、あの頃、戦後を、解放の頃を、乏しい時代を回顧しているわけにはゆかなかった。新しい解放の、パトスの時代がはじまろうとしていた。モンタンは68年9月に舞台を退く宣言をしたが、まことによく時代とおのれを知っていたといえる。
かれは時代とすれちがうことによって、老エンターテイナーとして終わりを全うすることができそうだ。くまどり濃く。

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