じじぃの「欲望ダメージ!偽善入門」

偽善者とは? 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xdM_xcaWxZg&feature=related
良寛さんが20年子どもたちと遊んだ五合庵 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5jJN-EdYqAg
『偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル』 小池龍之介/著 サンガ 2008年発行 (一部抜粋しています)
善人は本当に馬鹿を見るか
「偽善」を選んだときの効果は「善」に似ています。反対に、どんなにカッコウをつけたといたしましても、「偽悪」を選んだときに本人の心に与える影響は単なる「悪」と変わりません。
「善/悪/偽善/偽悪」はいったいどういうものなのか。そして、どのように取り扱えば私達地震がハッピーになれるのかということを考察して参りましょう。
取りかかりとして取り上げてみたく思いますのは「善人は馬鹿を見る」という定形的フレーズです。
おそらくはほぼすべての御方が、心のどこかで「善人は馬鹿を見る」と思っておられることかと拝察いたします。だからころ、善行為をすることをどこかで嫌い、同時に「自分は嫌だけど、他人は善人になって社会や自分の利益になるように行動して欲しい」という欲望を持っているのです。申し換えますと、「自分が善人になって損をするのは嫌なので、ぜひとも他人に損をしていただきたい」という陰惨なメッセージを放っているのです。
たとえば「私に求めてばかりいないで、たまには見返りを求めずに私に与えることもしてください」という相手への要求は、「あなたの心は欲望にまみれていて不善なので、もっと善なる道徳的な心になりなさい。そして損をしなさい」ということを言っているのに等しいのではないでしょうか。
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しかしながら、果たして善人は本当に損をしているのでしょうか?
それにそもそも、善人とはいったい、何者を指すのでしょうか?
欲望ダメージ
子供の頃を思い出していただきたく思います。
何か欲しいおもちゃがあって、親にねだっても買ってもらえなかったとき、多くの人が悲しくて仕様がなく、胸の張り裂けるような思いで大泣きしたという経験を持っておられるのではないでしょうか。自分でも何故泣いているのかが分からないほどコントロールがきかなくなって、いつまでもたがが外れたように泣き続けるといいますようなシーンは、欲望のエネルギーがいったいどれだけ激しいものであるかということを、明快に物語っているように思われます。
欲望には、それほど強烈に心をグチャグチャにし、その結果として異常な生化学的反応を身体に及ぼし、全身をメチャクチャにしてしまう恐ろしい威力が秘められているのです。
思いますに、皆さんは大人になるに従って、「何かが欲しいよ!」と思ったといたしましても、子供のときのいうな苦しみを感じなくなっているかもしれません。しかしながらそれは、欲望によって生じるダメージが子供のときより小さくなったわけではありません。人間という生き物には、自分が不愉快なことがあっても、繰り返しやることによって、それに慣れ、目を逸らし、不快感を抱かなくなる習性があるようです。実際には、子供の頃と同様に、胸を張り裂けさせるような不快物質が身体を駆け巡っています。しかし、その度に不快物質を敏感に感じていてはやっていられませんから、感じるセンサーを鈍くして、不快感に蓋をして感じないようにしているだけです。

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どうでもいい、じじぃの日記。
この日記は暇つぶしに書いている。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、小池龍之介著『偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル』という本があった。
「偽善入門」か。書いているのは東大出のお坊さんだ。
「人」と「為」で「偽」とは意味深な言葉である。
英語のhypocrite(偽善者)はギリシャ語hypokrisisでは「舞台の見せかけの役」で、英語hypocriteは「見せかけの役を演じる役者」という意味なのだそうだ。
「欲望」・・・仏教では、出家者は少欲知足(しょうよくちそく)といい、わずかな物で満足することを基本とした。南方に伝わった上座部仏教は、この少欲知足を基本とする。
                      −−『ウィキペディアWikipedia)』より
大人になっても子供の頃の「欲望」をずっと持ち続けているようなことが書かれている。
人間の欲望のために、他の生物がどれだけ犠牲になってきたのだろうか。
NHK BS 2010年12月4日放送 世界のドキュメンタリー 「海から魚が消える日」でこんな言葉があった。
「私たちは強くなりすぎました。どんな動物も私たちにかなう動物などいません。私たちは食物連鎖の頂点にいるのです」
人は若いときは気がつかなかったことも、老人になって始めて気がつくことがある。
山田風太郎著『人間臨終図巻 上巻』にこんなことが書かれている。
「死の瞬間に何びとも悟るだろう。−−人生の目的なるものが、いかにばかばかしいものであったかを」
私は、今になって知った。何が「善」なるかを。そして、自分の人生がいかにばかばかしいものであったかを。