じじぃの「人の死にざま_552_東郷・青」

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東郷青児の作品
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東郷青児 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
東郷青児は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。
なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている。
【年譜】
・1897年(明治30年) - 鹿児島市に生まれる。幼少時に一家は東京に転居。
・1915年(大正4年) - 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作。日比谷美術館で初個展、この頃有島生馬を知り、以後師事。
1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)までフランスに留学。リヨン美術学校に学ぶ。この頃の作品には、ピカソらの影響が見られる。
・1938年(昭和13年) - 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。
・1969年(昭和44年) - フランス政府よりオフィシェ・ドルドル・デ・ザール・エ・レットル(文芸勲章)を授与される。
・1978年(昭和53年) - 4月25日、第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
東郷青児(とうごうせいじ) (1897-1978) 81歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「そのモダンでキュービックな、それでいて、底に日本的な哀愁をただよわせた東郷の絵は、いまの女子高校生にまでもてはやされる甘さを持っているという理由から通俗的に甘い作風の先品とされて来たのである」
と、美術評論家の田中穣はいう。
その東郷青児は、二科の超ワンマンとして企業的才腕を発揮し、自分の娘のたまみを二科の会長にすえるほど権勢をふるい、女性関係をふくめて私生活も豪奢をきわめた。
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画壇の大ボス視されながら、「洋菓子屋のケーキの包み紙」「芝居の緞帳(どんちょう)」「喫茶店の壁画」などという定評は画商さえどうすることも出来ず、彼の絵は、生存中は最後まで、同時代の大家たちの10分の1という値段であった。
しかし、東郷青児は80を過ぎてもなお矍鑠(かくしゃく)として「いくつになっても女とクネクネしているのは実にいいもんだよ」などタフ・ガイぶりを豪語していた。
それが事実であることは、娘のたまみがのちに公表した彼の死の前年秋からの"性愛日記"でも明らかで、それには孫よりなお若い愛人との猛烈な性愛ぶりが赤裸々に描かれている。
ところが。−−
「昭和53年4月25日のこと、東郷はその日から始まる二科の熊本展のテープカットのため、前日から止まっていたホテル・キャッスルの部屋で、朝9時半ごろ突然意識不明になって倒れた。付き添いの人の連絡で、救急車が呼ばれ、近くの西郷病院に運ばれて手当てを受けたが呼吸困難となり、正午すぎに熊本大学付属病院へ送られて心臓マッサージなどの最後の手段がほどこされたかいもなく、午後2時8分に息をひきとった」(田中穣『心淋しき巨人・東郷青児物語』)
このとき青児は、「苦しい。こんなに苦しいことははじめてだ」と、うめいたという。
「死因は、心不全のため、と、あった。しかし、そのころ私が勤めていた東京の新聞社の熊本支局の記者から聞いた話では、いっしょに熊本に乗り込んでいた側近たちのあまりにもきびしい報道管制のために、死因について現地ではかえってさまざまな噂がひろがったそうであった。その1つなど、どうやら東郷の死因は単なる酒や過労による心不全ではなくて、熊本市内でひろった女との度の過ぎた遊びによる腹上死だったらしい、というものだった」(同上書)

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