じじぃの「人の死にざま_534_円地・文」

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円地文子|新潮社
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円地文子 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
円地文子(本名 富美ふみ)は、日本の小説家。
【人物】
東京市浅草出身。日本女子大学付属高等女学校4年次中退。東京大学国語学教授上田萬年の次女。夫は『東京日日新聞』の記者だった円地与志松。当時世間的には与志松のほうが有名だった。
日本の古典文学については、平安朝から近世まで詳しく、女を描いた小説と『源氏物語』など古典の造詣により評価され、文化勲章を受章した。『源氏』現代語訳は、与謝野晶子谷崎潤一郎に続くもので、新潮文庫に入りかつて広く読まれた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
円地文子(えんちふみこ) (1905-1986) 81歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和21年、41歳のとき子宮ガンで子宮をとってから円地文子は、凡庸なお嬢さま作家から一流作家に変身したといわれる。
晩年は網膜剥離に加えて糖尿病のため口述筆記のやむなきに至ったが、昭和60年には軽い脳梗塞にかかって歩行不能となり、その年の文化勲章を受けたときも、宮中へは車椅子に乗っていった。
瀬戸内寂聴は語る。
「ありとあらゆる文学賞、ほしいものはみなお取りになったけど、最後は文化勲章をね、とても欲しがったのね。・・・・あれ欲しいとなるともう矢も楯もたまらない。それをお貰(もら)いになって、嬉しそうでしたよ。そのときにね。無邪気によろこぶのね。ホントにうれしがるの」
最後まで食欲も創作意欲も旺盛で、「私は書いて書いて書き死にする」というのが口癖で、昭和61年11月11日も「新潮」のために自宅で第1回の口述をし、第2回は15日の予定であった。
13日の夕食は、彼女の所望でうなぎを食べて9時には就寝した。14日の朝7時ごろ、家政婦が「ちょっとごみを出して来ます」と声をかけると、寝室で「はい」という返事があった。5分ほどして家政婦が「そろそろ朝食ですから、起きられたらいかがですか」といったが、返事はなかった。寝室をのぞいてみると彼女は死んでいた。死因は急性心不全と発表された。

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