じじぃの「人の死にざま_458_東郷・平」

東郷平八郎 - あのひと検索 SPYSEE
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明治37-38年(1904-05) 日露戦争 海戦編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SuPl1_4tV1s&feature=related
東郷平八郎の肉声 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MsXkrwGa6Vg
東郷平八郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
東郷平八郎は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。
【概観】
明治時代の日本海軍の司令官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、「陸の乃木 海の東郷」と乃木希典陸軍大将と並び称され、日露戦争の英雄として国民の尊敬を集めた。
日露戦争
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。
そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。
この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。
【死去】
昭和9年(1934年)、膀胱ガンのため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。
6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には、イギリス帝国海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦「ケント」、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦の「オーガスタ」をはじめ、フランスとイタリアという当時の「五大国」の艦船をはじめ、オランダや中華民国の艦船が直ちに東京湾を目指して出港。儀仗隊を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた。
東郷元帥記念公園(東京都千代田区)当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
東郷平八郎 (1848-1934) 87歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和9年5月27日。号外。
海軍省発表。
東郷元師には昨年夏頃より発病、秋季に至り時々咽喉部にに異物感及び軽痛あり、その後一進一退の情況にて喉頭癌の診断の下に放射線療法その他の治療を施しつつあるも、老体に加えてその間、時々宿痾(しゅくあ)たる膀胱結石、座骨神経痛を起し、また気管支炎等を併発せるを以て衰弱が加わり、昨今心痛すべき容体にあり」
それは日本海海戦から29回目の海軍記念日にあたる日であった。
この放射線療法に使用したラジウムは東京内外の諸病院から動員したもので、全量1300ミリグラム、その価格は当時にして35万円に及ぶものであった。
妻の鉄子もまた6年前からリューマチのため臥床し、このころ手足も動かせない状態にあった。
長男の彪は語る。
「−−医師が、定めた日に来て、父の診察を終えますと、父は『ありがとう』と丁寧に礼を言ってから、『ついでに、お鉄も診てやって下さい』と必ず言いました。(中略)畏れ多いことですが、毎日、午後2時になりますと、必ず陛下より、御下賜のスープを頂きます時は、必ず、床の上で、合唱して、御礼を言上いたしました。そして、このありがたきスープを、隣室に臥している母に、いつも分けてやりました。思えば、胸も迫るようです。・・・・」
29日、午後11時すぎ、東郷の容態が絶望的になったので、鉄子は寝台ごと、東郷の病室の敷居のところまで運ばれた。
彪はいう。
「全く絶望の重態で、意識不明の筈の父が、この時、右手をしきりにうちふり、『わかったよ、わかったよ』と云うように、2、3度うなずきました。母は、父がすでに絶望であることを知っているので、父の面を、じっと見守って、両の眼に熱い涙を浮かべておりました」
前年に死んだ東郷の盟友山本権兵衛は、やはり椅子のまま運ばれて死床の妻に挨拶にいったのだが、こちらは逆の訣別の光景となった。
2、3分後、連れ去られながら、寝台の上で鉄子は、「乃木さんの奥さまが羨ましい」と、涙を流しながらいった。
30日午前7時、東郷は息をひきとった。
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8年後の昭和17年5月29日、連合艦隊主力は、日本海軍滅亡の序曲を奏(かな)でるべく、ミッドウェーめざして出撃する。
作家阿川弘之は『米内光政』でいう。
東郷平八郎は、晩年部内で神様扱いされるようになった。重大事件は何事も、80を過ぎた老元帥の意向を聞いてからという奇妙な風潮が出来上がり、ロンドン軍縮条約の批准にあたって、加藤寛治や末次信正、小笠原長生らの取り巻きにかつがれた東郷は、少壮強硬派の勇ましい連中と同じことしか言わなくなり、最高人事に口を出して海軍の進路を誤まらせるもとを作った」
−−昭和6年ごろ、「東郷神社」建立の話が持ちこまれたとき、あまり怒った顔を見せたことのない東郷が顔色を変え、なんと馬鹿なことを考える、と声ふるわせて怒ったというが、事実上、生きながら彼は神様にされていた。−−東郷平八郎は長生きしすぎたのである。

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NHK HI 『日中戦争 〜兵士たちは地獄をみた〜』 2009年8月放送
映像に出ていた老兵士の言葉より。
日本が大国ロシアに勝ち、ロシアが樺太の半分を日本へ割譲した。
これから、日本人は謙虚さを忘れ「それ行けドンドン」になって太平洋戦争に突入していった。

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