じじぃの「人の死にざま_764_ピョートル大帝」

ピョートル1世 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB1%E4%B8%96/82772/
23 ピョートル大帝 1682 ピョートル大帝即位(ロシアの近代化) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3gN0FXq3TDg
ロシア ピョートル大帝夏の宮殿庭園 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=6lcCfjkORq4
ピョートル1世 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ピョートル1世(1672年5月30日 - 1725年1月28日)は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代のロシア皇帝(インペラートル / 在位:1721年 - 1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝と称される。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの六男、母はナタリヤ・ナルイシキナ。
ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く徴用して、国家体制の効率化に努めた。1721年には大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、また、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される。
なお、ピョートルの存命時のロシアはグレゴリオ暦を採用しておらず、文中の日付はユリウス暦である。

                                    • -

井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
ロシアを近代化に導いた英雄 ピョートル大帝 (一部抜粋しています)
ロシアという国はヨーロッパの「田舎」であった。
「都会」のヨーロッパ、イギリスやフランスやイタリアやドイツでは、結局共産主義革命は成功せず、ロシアでは成功しソビエト連邦が生まれたのも、アジアの「後進国」中国でしか共産主義革命が成功しなかったのとよく似ている。「後進国」とは一体どういうことなのかといえば、それは豊かさの問題というより、民族の問題である。ロシアも中国も決して貧しい国ではない。いやむしろ資源の点からいえば、世界有数の豊かな国である。にもかかわらず、なぜすんなり近代国家になれずに「共産主義」という遠回りをしたのかといえば、(中国は未だに遠回りをしているが)。近代国家の基本要素「民主主義と資本主義」には、住民の一人一人がどれだけ「読み書きソロバン」ができるかにかかっている。いくら少数のエリートがいても、そのエリートがいかに優秀でも、近代国家というのは国民の一人一人がある程度の「教養」がなければ立ち行かないものである。
まさに中国と日本はその好例である。
      ・
そのロシアの英雄の中で、大帝という称号で呼ばれる唯一の男が、このピョートルなのである。
ピョートルは1672年に生まれた。
この時代西ヨーロッパはさまざまな改革の下に、近代化を進めていた。それに一歩も二歩も遅れを取っていたのが、ロシアである。
西欧諸国に追いつくためには近代化が急務であった。
彼は共同統治していた。異母兄イワン5世が亡くなり、自分一人の権力を確立すると、思い切った手段で近代化の先頭に立った。何と名を変えて一介の使節として西欧に行き、自ら新知識を学ぶとともに多くの人材をスカウトしてきたのである。このとき、30前後で、まさに「身分を隠した若様」だが、日本の時代劇によくあるこの設定を、実際に実行したのは世界広しといえどもピョートルぐらいのものだろう。
また字制改革にも力を注いだ。
それは北はもう行くところがないのに、南には豊かな海が広がっているからである。
また西のバルト海地方も魅力的だ。南に行けば中国、朝鮮そして日本だ。ピョートルの時代はまだそこまで手が届かなかった。むしろバルト海制海権を得ることこそ、手の届く欲望であった。このあたりは北はスウェーデン、南はオスマントルコの縄張りであり、後に北欧三国(スウェーデンノルウェーフィンランド)がロシアの膨張主義に悩まされるようになったのも、そもそもピョートルが原因だった。
またオスマントルコはロシアの宿敵となりバルト海をめぐって大戦争を繰り広げた。結局、この戦いはロシア側の勝利に終るが、ロシアの勝利に貢献した大艦隊こそ、バルチック(バルト海の)艦隊である。このバルチック艦隊が世界を半周して東郷平八郎の日本連合艦隊と対決したのが、世界海戦史上稀にみる「」パーフェクトゲーム」といわれた日本海海戦だが、そのきっかけもピョートルにある。
      ・
ピョートルは酒が大好きで、しばしば側近を集めて大宴会を催したという。
バルト海に面するサンクトペテルブルグは、ピョートルがフィンランドに備えて作ったペトロパブロフスク要塞が原型となった都市で、だからもとはペトログラード(ピョートルの町)と呼ばれた。

                                    • -

ピョートル大帝 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D&oi=image_result_group&sa=X