じじぃの「歴史・思想_374_物語オランダの歴史・英蘭戦争」

Michiel de Ruyter Officiele Trailer

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Gp6RzKQX704

Michiel de Ruyter

イギリス=オランダ戦争英蘭戦争

世界史の窓
17世紀後半に展開された海上貿易の覇権をめぐるイギリスとオランダの戦争。第1次(1652~)はクロムウェルが定めた航海法にオランダが反発、第2次(1665年~)は王政復古期イギリスのチャールズ2世との海戦をオランダが優位に戦い、第3次(1672年~)はイギリスとフランスその他がに呼応してオランダを攻撃した。フランスが両国共通の敵となるにおよび英蘭の対立は解消される。
●第2次:1665~67年
王政復古後イギリスのチャールズ2世はさらに通商上の利益の独占を目指して航海法を更新すると共に、1664年には新大陸のオランダ植民地ニューネーデルラントを侵略、その中心ニューアムステルダムを占領してニューヨークと改称した。反発したオランダが宣戦布告して1665年に第2次英蘭戦争が起こった。
第1次での敗北を反省したデ=ウィットは海軍の増強(その原資は、オランダが長崎貿易で得た銀が充てられたという)、海軍提督デ=ロイテルは艦隊の訓練を重ね、今回は十分な態勢をっていた。1666年6月にはノースフォアランド岬沖で「四日海戦」と言われる激戦(17世紀最大の海戦と言われた)でオランダ海軍が大勝利を占めた。さらに、オランダ海軍は、テムズ川支流メドウェー川をさかのぼり、イギリス海軍の基地チャタムを襲撃して戦艦を焼き払い、旗艦ロイヤル・チャールズ号を奪うなどの戦果を挙げた。こののロンドンを脅かすオランダ海軍を指揮したデ=ロイテル(ライテルとも表記)は、現在でもオランダで最も人気の高い歴史上の人物となっている。
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-056.html

『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

はじめに より

2004年10月から11月にかけて、オランダで放送された「最も偉大なオランダ人」(De Grootste Netherlander)と題するテレビ・シリーズの最終回で、数十万人の視聴者の投票をもとに最終的に選び出されたオランダ史上の偉人ベストテンは以下のようなものであった。
①ピム・フォルタイン
②オランイェ公ウィレム
③ウィレム・ドレース
④アントニ・ファン・レーウェンフック
⑤デシデリウス・エラスムス
ヨハン・クライフ

⑦ミヒール・デ・ライテル

アンネ・フランク
レンブラント・ファン・レイン
フィンセント・ファン・ゴッホ
    ・
前者に含まれるのが、オランダ人気質を語る際必ず引き合いに出される人文主義エラスムス独立戦争の指導者オランイェ公、17世紀の海軍提督デ・ライテル、微生物研究者のファン・レーウェンフック、そして多芸多才の画家レンブラントである。

英仏との戦争、国制の変換――17世紀後半から19世紀初頭 より

第1次英蘭戦争

オランダの経済的繁栄を羨(うらや)むイングランド商人たちは、内乱下では経済的ライバルに挑戦する余力はなかった。しかし議会派勝利後の1651年、保護主義的な「航海法」によって、イングランド議会はオランダに真正面から挑戦してくる。航海法は、イングランドおよびその植民地に搬入される商品の運搬をイングランド船や、その産出国ないし最初の積出国の船に限定しようとするもので、明らかにオランダの海運業に打撃を与えることを狙っていた。
この航海法が導火線になり、翌1652年も第1次英蘭戦争勃発する。かねてからイングランド側は国の周りの海域に対する主権を主張し、そこでイングランド船に遭(あ)ったときには旗を降ろして敬意を示せと高飛車に要求していた。5月29日、ドーヴァーで、商船を護送中のマールテン・トロンプ率いるオランダ艦隊と、ロバート・ブレーク指揮下のイングランド艦隊が遭遇し、前者が後者の要求に応じず、最初の砲火の応酬がなされた。
準備不足だったオランダ側は2年間の戦いで多数の船舶を失い、外国私拿捕船の掃討で功があったヨハン・ファン・ハーレンや、1639年のダウンズ海戦でスペイン艦隊を撃退した前述のトロンプといった優れた艦隊指揮官をも失う。
王政打倒後のイングランドで1653年に護国卿となったクロムウェルは、もともと、自身が軍事遠征中で不在だったときに議会が決めたこの戦争に対して、ヨーロッパのプロテスタント陣営の結束を乱すばかりか戦費もかさむという理由で批判的であった。彼の意向が反映されて、1654年、英蘭両国はウェストミンスター条約を結んだ。その時点ではオランダ側が劣勢だったので、デ・ウィット(オランダの政治家)は多くの譲歩を強いられた。そのなかには、ホラント州議会はオランイェ公を2度と州総督に任命しないという秘密条約も含まれていた。

第2次英蘭戦争での勝利

イングランド」ではその後、王政が復活してチャールズ2世が即位する。その治世のもとで、1665年、またもや商業上の覇権をめぐる争いとして第2次英蘭戦争が発生する。第1次英蘭戦争終結から11年後である。
デ・ウィットは、フランスとの同盟、およびオランダ史上最も偉大な海の英雄ミヒール・デ・ライテル(1607~76)との緊密な協力などにより、序盤の劣勢を立て直し、オランダを優勢へと導く。転機になったのが、第1にノース・フォアランド岬沖で戦われた「四日間海戦」(1666年6月11~14日)。第2にデ・ウィットの発案に基づき、オランダ艦隊がテムズ川をさかのぼり、支流のメドウェー川にあるチャタムの英海軍基地を襲撃して多数の艦船を焼き払うとともに旗艦ロイヤル・チャールズを奪い去った「チャタム進撃」(67年6月19~24日)であった。

2015年に公開されたオランダ映画『ミヒール・デ・ライテル』(邦題『提督の艦隊』は、これらの海戦を含む英蘭の長期の戦いを雄大なスケールで描いている。

デ・ウィットは第1次英蘭戦争の敗因に学んで、すでに海軍重視の軍備増強を進めていた。
オランダ海軍は、1597年以降、5つの「アドミラリテイト」(海事支庁)によって維持されていた。所在地は、①ロッテルダム(マース川方面)、②アムステルダム、③ミッデルブルヒュ(ゼーラント州)、④ドックムのちハルリンゲン(フリスラント州)、⑤ホールンまたはエンクハイゼン(ホラント州北部、交替制)であった。
各海事支庁は7名の委員で構成され、うち4名は管轄区域のレヘント層であった。1648年以降、7名のうち数名が定期的にハーグに赴き、他の海事支庁と協議を行った。海戦の方針を決めるのは全国議会であり、全国議会の代表団は戦場にも立ち会った。
デ・ウィットの海軍強化の方針を実行に移したのが、友人であった提督デ・ライテルである。デ・ライテルはカルヴィン派の船乗りの家に生まれ、当初は商船の運航に携わり、1652年以降海軍に籍を置いていた。
デ・ライテル提督は乗組員たちが艦砲を迅速に発射できるよう訓練し、船長や将官らが命令に従って自在に艦船を操れるよう徹底的に指導した。彼は勇気と細心さを併せ持ち、変転する戦況に応じて思うままに艦船を展開することができ、現に華々しい戦果を挙げた。乗組員からの信望も厚く、ついたあだ名は「祖父ちゃん」であった。戦勝に浮かれもせず、ある目撃証言によれば、「四日間海戦」後も提督は艦長室を自分で掃除するなど普段通りだったという。