じじぃの「人の死にざま_1766_梁・啓超(清末の政治家)」

20160505 人物 先生 梁啓超 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gb7X6jxN6DU
中国 山東省威海市

劉公島

梁啓超 : 日本では良く知られていない、中国ジャーナリズムの祖 2016年06月04日 Zhenの読書日記
変法論では、もちろん「古文教は偽教」と言った康有為を評価している。しかし「変法の理論的基礎を築いたのは康有為であったが、新聞・雑誌というメディアを用いた変法運動の宣揚に最も貢献したのは、…梁啓超であった」。
https://ameblo.jp/sinicitakado/entry-12167210977.html
『活中論 巨大化&混迷化の中国と日本のチャンス』 近藤大介/著 講談社 2017年発行
日清戦争前の日中といまの日中 より
中国人が「威海の博物館」と言えば、それは山東省威海市の外島、劉公島にある「中国甲午戦争博物館」(日清戦争博物館)を指す。
中国には、俗に言う「四大抗日博物館」がある。北京郊外の蘆溝橋にある中国人民抗日戦争記念館、南京にある南京大屠殺記念館、ハルビンにある侵華日軍第七三一部隊遺祉、そして日清戦争の激戦地、威海・劉公島に建つ中国甲午戦争博物館である。私は前の3つの博物館には足を運んだことがあったが、威海にはそれまで行ったことがなかった。
そこで意を決して、高速鉄道のチケットを手配し、山東半島の先端に位置する威海へ向かったのだった。
威海は、人口280万の港町で、以前は「抗日都市」が売り物だった。その後、2013年の2月と3月に朴槿恵政権と習近平政権が発足し、「中韓蜜月時代」を築いてからは、「中韓有効の象徴都市」として脚光を浴びていた。
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劉公島は清朝末期、「海上の屏風」と称され、北洋艦隊の本部が置かれた。黄海から渤海に入る地点に位置し、渤海の奥に位置する首都・北京を防衛する海上の要衝だからだ。
北洋艦隊は1888年(光緒14年)の暮れに、李鴻章・北洋大臣(1823〜1901年)が劉公島に創設した。1874年に明治日本の海軍が台湾に入ったことに驚愕し、近代海軍の創設を決めたのだ。主要軍艦25隻、補助軍艦50隻、輸送船30隻、海兵は4000人余りで、毎年400万両の銀を予算に計上した。
劉公島の南側の波止場に降り立つと、屏風のように海岸線が拡がっていて、軍港にはうってつけだと理解できる。空は快晴なのに、往年の激戦地跡のせいか鬱蒼とした雰囲気だ。
眼前の石畳の坂を上がると、北洋艦隊の提督署跡が、近海を睥睨(へいげい)するように建っていた。提督署は1887年の完成で、荘厳な正面の奥に、三重庭院造りになっていた。100以上の部屋を有し、総面積は1万7000平方メートル、まるで「ミニ故宮」だ。
1番奥の提督室で、丁汝昌提督が、英国人のラング顧問らと作戦会議をしている様子を、蝋人形で再現していた。北洋艦隊の現場責任者だった丁汝昌提督は、日清戦争2年目の1895年2月11日、劉公島を日本帝国海軍に包囲される中、玉砕してでも日本軍と交戦し続ける根器だと主張。部下や外国人顧問たちに反対されたため、深夜にこの場でアヘンを大量に飲んで自殺を図り、翌朝死去した。
それによって丁提督の部下と外国人顧問らが日本軍に投降し、ついに難攻不落と言われた劉公島は陥落した。丁汝昌提督は、同じく日清戦争黄海海戦で戦死した訒世昌水師とともに、中国の歴史の教科書に載っている烈士だ。
続いて、長い階段を下りて、海岸沿いに建つ陳列館に入った。入り口には、近代中国の著名な思想家・梁啓超(1873〜1929年)の「わが国の千年の大きな夢を喚起せよ、それは日清戦争から実行するのだ」という言葉が掲げられていた。梁啓超は、清朝を打倒して西洋的立憲国家を作ろうとしたり、日清戦争後に14年間も横浜中華街で亡命生活を送ったり、第一次世界大戦後に中国の顧問としてパリ講和会議に参加したりと、波乱の生涯を送った。思想的にも複雑な人物だが、習近平政権では、建国の父・毛沢東が尊敬していた人物ということもあって、肯定的に捉えられている。
私は梁啓超のこの言葉を目にした時、習近平政のスローガンである「中国の夢」、正確には「中華民族の偉大なる復興という中国の夢の実現」は、ここから来ているのだと悟った。