じじぃの「人の死にざま_1259_福井・英一」

福井英一 - あのひと検索 SPYSEE
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ちょい見せ 「赤胴鈴之助 動画 YouTube
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イガグリくん 画像
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今さらですが「イガグリくん」・・・福井英一 風こぞうのブログ
『イガグリくん』・・・福井英一・月刊誌「冒険王」昭27年3月号〜29年8月号連載。
人気絶頂期だった昭和29年6月、作者・福井英一さんは過労のため33歳で急逝されました。
しかし、その後も清水春男、竹山のぼる、有川旭一さんに引き継がれ連載されましたが普通の中学生柔道の話から大きく外れ、怪人、怪物と闘うストーリーに読者の反応は無く、いつの間にか姿を消してしまいました。
福井英一さん、漫画家としてはわずか5年の実務だったそうです。
http://blogs.yahoo.co.jp/kaze2010_case_case/11955982.html
福井英一 ウィキペディアWikipedia)より
福井 英一(ふくい えいいち、1921年(大正10年)3月3日 - 1954年(昭和29年)6月26日)は、日本の漫画家、アニメーター。東京都出身。
【来歴】
1953年(昭和28年)、『イガグリくん』の大人気を見て、各漫画誌は次々と追随、柔道漫画のブームが巻き起こる。この時期、手塚治虫との対抗心が激化。翌年「イガグリくん事件」が起こる。
この時期、激化する月刊漫画誌の売上競争の中、秋田書店が単行本型の「別冊付録」をつけたところ大当たり。別冊競争が始まり、29誌あわせて別冊付録が毎月50点から80点に及ぶに到り、別冊をこなせる漫画家の獲得戦が始まった。このなか福井も各社から別冊注文が殺到、寝る暇もない超多忙な制作状況となる。
1954年(昭和29年)、『銀の鈴』(銀の鈴社)に連載していた『よわむし鈴之助』を基に、『少年画報』(少年画報社)に『赤胴鈴之助』を連載開始。
6月26日、前夜カンヅメ仕事を終えた後、編集者と朝まで飲み明かし、一度帰宅してから再びカンヅメ仕事に入った。このときはげしい頭痛に見舞われ、医者を呼ぶこととなった。「過労と、朝まで酒を飲んだせいでしょう」との診断を受け、医師が帰ったその直後に容体が急変し死去。過労による狭心症だった。享年33。
こうして『赤胴鈴之助』は第1回目を描いたところで絶筆となったが、「そのまま打ち切りにしてしまうのはあまりにも勿体ない」という少年画報社編集部の判断で、新人漫画家・武内つなよしに連載が引き継がれた。

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『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝〈1)』 手塚治虫/著 大和書房 1979年発行児童長屋紳士録 (一部抜粋しています)
昭和27年、突如として、福井英一は”脱皮”した。
”脱皮した”というのは、蛇が皮を脱ぐように、あのカサカサの気味悪い鱗(うろこ)の皮を残したという意味ではない。今まで蛹(さなぎ)だった蝶が羽化して、大きく美しい翅を一杯に広げ、日光の中に羽ばたいたという意味においてである。それほどかれの変貌は見事だった。漫画少年の「バットくん」の代作に始まって、どちらかというとオーソドックスなユーモアものを手がけていたかれが、突如として新境地”熱血感動もの”に転じたのである。それも、懐しの”佐藤江緑”調に”富田常雄”調を加味し、従来の漫画になかったジャンルを開拓したのだった。そのタイトルは「イガグリくん」、昭和27年から「冒険王」誌上に連載を始めた。
かれの頭のなかには、「姿三四郎」がちらついていた。それまでの少年誌は、ナショナリズムにはつとめて気を遣い、柔道、剣道、空手を登場させるには、特に遠慮深く、中途半端な扱いをしていたので、読者に何の感興も与えなかった。福井氏は、そのベールをかなぐり捨て、正面切って武道漫画に取っ組んだ。野枯しの中に対決する黒帯や、空手使いは、アナクロニズムなどどうでもよく、ひたすらかっこよく、少年達が心から消し去っていたなにかに明るい灯をともした。しかも、かれは、ひそかにぼくのストーリイ漫画の手法を研究していたらしく、堂々と、この作品において映画手法を駆使しだしたのだ。これは当たった。人気は鰻上り、二度目の別冊付録をつけたときには、「冒険王」の売れ行きは、他の月刊少年誌を圧した。
「しまった、やられた!」
と、ぼくは思い、舌を巻き、なんとかストーリイ漫画の面目を、ぼくなりの作品で示して、「イガグリくん」と勝負しようと思ったが、ツキに乗った「イガグリくん」は、どうしても抜けない。やがて開局した民間放送のひとつが、「イガグリくん」を連続ドラマにとり上げ、単行本がベスト・セラーになったのを見てかぶとを脱いだ。
かれは、内心得意の絶頂だったろうと思う。新宅に引っ越し、むすこも生まれ、友人も増えて、まさに幸運をひとり占めにした感があった。さらに「イガグリくん」の人気にあやかって、他の雑誌も、同工異曲の熱血ものを、かれに依頼するようになった。
いちどだけ、かれがぼくの漫画をほめたことがある。ぼくは、「弁慶」という時代のものを、清水の舞台からとびおりたつもりで描き、なかで歌舞伎の勧進帳の舞台を使ってユーモラスに弁慶を描いたら、できた本をじっと見ていたかれが、
「やりあがったな、うめえ」
と、うなった。かれの純粋な一徹さが、弁慶の朴訥な忠誠ぶりに相通じたのかもしれない。
このころから、かれは、毎日、雑誌社のカンヅメがつづき、かれの容貌は、日増しにやつれて、ゴッホの肖像のように荒寥となった。徹夜をしては酒を呑み、さらに仕事を重ねた。だがかれのからだの衰弱とは裏腹に、筆のほうはますます油が乗って、その快調ぶりは誰もが認めざるを得なかった。すでに「少年画報」では、かれが「イガグリくん」以来の自信作と称する「赤胴鈴之助」の第1回を描き終えていた。
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それから1ヵ月ほどたって、旅館にいたぼくに、仲間からとつぜん電話があった。早朝だった。
「福井氏が死んだぜ」
「なんだって!?」
「今朝がただ。みんなが茫然としている。すぐかれの家に来てくれ」
「な、なぜ死んだんだ?」
「徹夜で外で仕事をして、明け方飲んだらしい。そのままうちへ帰って、ポックリいっちまった。頭痛がするというので、医者が一応診たんだが、その医者が帰ってすぐの出来事なんだ」
「すぐ行く」
ついていた記者を拝みたおして、ぼくは旅館をとび出した。
――福井氏が死ぬとは……人気絶頂というときに……惜しい奴を惜しいときになくしたもんだ――
だが、その人の死を悲しもうという心境は、どろどろした暗黒の思惑によってしだいにけがされていった。
――ああ、ホッとした――
なんという情けないおれだろう、とつくつぐ嫌になった。だが、はっきり言って、これでもう骨身をけずる競争はなくなったのだ、という安堵感を覚えたというのが本音であった。ぼくの心に、巨人のようにのしかかった”人気競争”に、ぼくは、まったく疲れ果てていたのだ。

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