じじぃの「人の死にざま_1258_大藤・信郎」

大藤信郎 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%A4%A7%E8%97%A4%E4%BF%A1%E9%83%8E/32128
大藤信郎/日本アート・アニメーション映画選集より 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ik-lS4xWIu4
Kujira (1952) 動画 パンドラTV
http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_nom&ch_userid=abc1234abc&prgid=43252855
桃太郎 海の神兵 1/9 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=suRt7Dtdsmg&list=PL1E6EDFACE030DA3C
大藤信郎について −短い評伝− 映文連
日本のアート(クラフト)アニメーション作家の草分け、大藤信郎の名は、最近では日曜日の夜のクイズ番組にも登場するようになった。
http://www.eibunren.or.jp/wordpress/?page_id=1187
大藤信郎「くじら」、「幽霊船」デジタルリマスター版を特別上映 映文連創立60周年記念 2013年11月10日 アニメ!アニメ!
日本のアニメーション史で重要なアニメーション作品が、デジタルリマスター版で新しい映像となった。その新しくなった作品を披露する上映会が開催される。
12月8日、日仏会館ホールにて、大藤信郎の『くじら』と『幽霊船』が特別上映される。特別上映は映文連(公益社団法人映像文化製作者連盟)創立60周年を記念して実施される。
http://animeanime.jp/article/2013/11/10/16272.html
首都圏ネットワーク 特集「東京国際映画祭 大藤信郎監督」 2013年10月17日 NHK
【司会】片山千恵子、村竹勝司
東京国際映画祭:2013年10月17日〜25日の9日間開催。
アジアで最大規模の映画祭である東京国際映画祭が開幕し、東京六本木のメイン会場では国内外の俳優や映画監督などがグリーンのカーペットを歩く恒例のイベントが行われた。今回の映画祭で日本アニメのルーツを知りたいという海外からの要望にこたえて初期の国産映画をデジタル復元して上映することになった。復元をすすめたフィルムセンターの岡田秀則主任研究員は古めかしいものではなく、現在でも鮮烈な印象を与える映画である述べた。
『くじら(KUJIRA)』は大藤信郎監督によって作成されカンヌ映画祭の短編部門にノミネートされた。また、映画『幽霊船』では以前より多くのセロハンを使用し、ベネチア国際映画祭で短編部門で特別栄誉賞を受賞した。
http://www.nhk.or.jp/shutoken/net/
大藤信郎 ウィキペディアWikipedia)より
大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900年6月1日 - 1961年7月28日)は、東京都浅草出身の日本の男性、アニメーション監督である。
【経歴】
戦前期には江戸千代紙を用いた切り絵アニメーション、戦後は影絵と色セロファンを用いたアニメーションを個人で作り続け、とりわけ後者は日本のアニメーションとして初めて国際的な評価を受ける。特に1953年にカンヌ国際映画祭短篇部門に出品した『くじら』(1952年完成)は上映会場で画家パブロ・ピカソにも絶賛された。没後、大藤の生涯の業績を記念して毎日映画コンクールの中に大藤信郎賞が設けられた。
宗教団体のスポンサーによって日本の神話や仏教を題材とした作品を作りつつ、色セロファン影絵という独自の技術を磨いて自主製作で『くじら』と『幽霊船』を完成させた。それらは商業的な成功を得ることはなかったが、『くじら』と『幽霊船』は海外の映画祭で高い評価を受けて、当時日本では過去の人となっていた大藤の名を残すこととなった。

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『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝〈1)』 手塚治虫/著 大和書房 1979年発行

国際漫画映画の夜明け (一部抜粋しています)
ぼくは、京王電車の駅の電柱におもいがけぬ張り紙を見た。「漫画映画製作者募集」の張り紙である。(当時まだ漫画家とか、アニメーターとかいうことばは使わなかった)。たちまち、ぼくは『桃太郎 海の神兵』のような豪勢な作品を、遮二無二作りつづける自分を思い浮かべ、まったく発作的に、そのプロダクションへ飛び込んだ。
「ぼくを使ってください」
すると所長は、ぼくの出した『新宝島』や2、3の赤本を見たうえで、
「だめだ、君は映画に向かん」
と断った。
「実力がありませんか?」
がっかりして訊くと、
「一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割がいいものだから、ケタ違いに不利な漫画映画など、とても作る気になれない。あきらめるんだな」
ぼくはがっかりして、以来、漫画映画からは、すっぽり縁を切ってしまう決心をした。
当時、フィルムやその他の資料が、かろうじて群小プロダクションの手に届いたといった状態で、また一方では、国産のカラー・フィルムがやっと開発されつつあった。日本漫画株式会社では、戦時中に作られた政岡憲三氏の短編『くもとちゅうりっぷ』を、一部分、カラーでつくりなおしてテストをしたりしていた。
新日本動画社(のちに日本漫画映画KK)は、戦後、ちらばっていた漫画映画のプロ達が結集して発足した会社である。政岡憲三村田安司、山本早苗といった大親分がずらりと並び、100人近いアニメーターが傘下に群がった。”群がった”という形容は、この場合、まったく当を得た表現なのである。つまり、ひとりひとりでは食えないから、とにかく集まろうという雰囲気だった。だいたい、漫画映画というのはワンマンシステムでないと作れない。各スタッフが、思い思いに勝手気儘な冒険をしていては、闇汁のような代物ができてしまうので、統率者は徹底した独裁制をしかなければならないのである。ここに動画のもっている宿命がある。つまり、たったひとりでコツコツやるか、ワンマン体制の企業体にするかである。それまで一国一城のあるじだったかれらが、ただ個人資本では製作が不可能だという不安から結集したところで、うまくいくはずがない。それは烏合(うごう)の衆的な大集団に過ぎぬ。たちまち内部分裂がおきて、政岡憲三、山本早苗両氏はとび出してしまい、日本動画社をつくった。のこった村田安司氏は、社内を整理して日本漫画社とした。もうひとりの戦前派の大ものとして大藤信郎氏は、それらの集散にはまきこまれず、ただひとりでせっせと影絵映画をつくっていた。が、この人はむしろアウトサイダーとして、ほかの漫画映画畑からは問題にされなかったらしい。ところでこの大藤氏が、すぐそのあと、モタモタしている他の連中を尻目に、セロファン映画『くじら』をつくってカンヌ映画祭に出品し、ピカソ達審査員をあっといわせ、一躍代表的日本漫画映画作家とみなされたのだから、おもしろいものである。
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話は戻るが、昭和25年に、国産漫画映画は、ひとつの力作を発表した。日本漫画映画社の『王様のしっぽ』だ。
これは、『桃太郎 海の神兵』の瀬尾光世氏が松竹映画部から抜けて、日本漫画映画社でつくったもので、戦後最初の長編動画である。ところが、この映画、幻の名画というやつで、ほとんど観たおぼえのある人はいない。たいへんな莫大な経費と時間を費やし、いったん製作中止になったほどの大作で、ついにむくいられずに終わった例である。
話は、狐の国にしっぽのない王様が生まれ、国中の狐が、しっぽをかくして暮らさねばならなかったという、『はだかの王様』をアレンジしたような筋だが、本格メルヘンとして立派なできだった。ことにラストで、しんしんと雪の降るシーンは立体効果もあり、忘れられない。こういった大作すら、ろくに封切られないほど、日本の漫画映画はめぐまれていなかったのである。

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