じじぃの「人の生きざま_709_熊井・啓(映画監督)」

黒部の太陽(映画版) OP 動画 Dailymotion
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映画「黒部の太陽」全記録 (新潮文庫) 熊井 啓 Amazon
熊井啓(1930‐2007) 映画監督・脚本家。
長野県生れ。1949年、旧制松本高校修了。’53年、信州大学文理学部卒業後、’54年、日活撮影所に入社。『霧笛が俺を呼んでいる』(’60)、『銀座の恋の物語』(’62)などの脚本を執筆。’64年、『帝銀事件・死刑囚』で監督デビュー。『忍ぶ川』(’72)で芸術選奨文部大臣賞、『サンダカン八番娼館・望郷』(’74)でベルリン国際映画祭銀熊賞、『千利休 本覺坊遺文』(’89)でベネチア映画祭銀獅子賞など映画祭での受賞多数。1995年、紫綬褒章受章。

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『ワケありな映画』 沢辺有司/著 彩図社 2014年発行
実際の事故映像に限りなく近い、命がけのシーン 『黒部の太陽 (一部抜粋しています)
黒部の太陽』というと、最近ではフジテレビ開局50周年記念として放送されたテレビドラマ版がある(2009年3月に2夜連続放送)。主演は香取慎吾小林薫。DVDも発売されている。
しかしここで取り上げたいのは、60年代後半に製作された映画版だ。主演は三船敏郎石原裕次郎東宝の黒澤作品から世界的な俳優へと飛躍していた三船と、日活の大スターとして国内でカリスマ的な存在となっていた石原である。いまでいえば渡辺謙木村拓哉といったところか。
三船と石原、一見、ふたりの接点を見出すのは難しいが、ともに独立プロダクションをもっていたことで共通する。
木本正次が書いた『黒部の太陽』は、戦後の巨大プロジェクトだった黒部ダム建設を通して、人間と自然の闘いを描いたもの。新聞でも掲載されていたが、三船プロ(1962年設立)と石原プロ(1963年設立)は、この作品をふたりの共演で映画化しようと考えた。
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監督の目処がたったのは1967年春のこと。同年5月9日の製作発表記者会見で、日活に所属する熊井啓の監督起用が発表された。すると、混乱が巻き起こった。日活が、自社の監督の貸し出しに強く抗議したのである。事前になんの話がなかったため、強行的に引き抜かれたという不信感を募らせたのだろう。
日活で2年間も作品を撮らせてもらえないでいた熊井は、日活を辞めてでも『黒部の太陽』を撮るつもりでいたが、日活との関係をこじらせてまで製作に踏みきるわけにもいかない……。
監督問題とともに悩ましかったのが、配給の問題だ。東宝か日活かということになるが、三船・石原の理想は大きな映画館をもつ東宝の配給。だがそれを見透かしてか、日活は、「東宝は他者の監督を引き抜いて映画を作らせ、配給することになる」と牽制することを忘れなかった。
「熊井は貸さない」「日活も他の4社も配給しない」と言って三船・石原をおいつめる日活。だが、「三船・石原の共演作なら自社で配給したい」という日活の本音が読めればなんてことはない。結局、「配給は日活」という線ですべての問題は解決した。熊井には解雇命令が出されていたが、これも撤回。晴れて熊井も製作に専念できることとなった。
同年7月23日、ごたごたが解消してようやくクランクイン。
映画の最大の見せ場は、ダム建設途上でぶつかった”破砕帯”と呼ばれる巨大なフォッサ・マグマの断層(幅82メートル)を突破するまでのドラマだ。実際の工事ではここを突破するのに7ヵ月を要している。
熊井は、この破砕帯で起きた出水事故に焦点をあて、破砕帯を含めた関電トンネルのセットを熊谷組工場内に建設させた。破砕帯の仕掛けとして、秒速約25トンで放水できる貯水槽も作らせた。
さて問題の出水シーン。シナリオでは「切羽の崩壊の危険が迫ったので、北川(三船敏郎)が全員退避を命じるが、それに逆らう岩岡(石原裕次郎)らがもみあいとなり、すると次の瞬間、切羽が崩壊し、大量の水が噴出し、その場の6人が激流にのまれる」というもの。CGなし、スタントなし、貯水槽に水を貯めるのに1日かかることから、カメラは11台を設置して一発で撮影する。
ところが本番の撮影では予想を上回る量の水がいちどに流出し、役者やスタッフにむかって襲ってきた。
三船は無事逃げ切ったが、石原はまたたく間に水に呑み込まれ、失神。監督や助手もあっという間に水圧に飛ばされた。負傷者10数名はすぐに救急車で運ばれる。石原は腰と手足を強打、親指は骨折。死者が出なかったのがせめてもの救いだろう。フィルムに収められているものは、ほんとうの事故映像にかぎりなくちかい。
そんな命がけのシーンを随所に収めた映画は、無事に完成。公開は1968年2月17日、最初の1年で、観客動員数733万人を記録。当時の劇映画の興行の新記録を樹立した。