じじぃの「人の死にざま_1544_栄西(臨済宗の開祖)」

栄西

お茶・栄西茶(えいさいちゃ) 食と農業
現在の日本茶をもたらしたのは、臨済宗の開祖「栄西禅師」とされ、現在から約800年前の西暦1191年、佐賀県脊振村にある霊仙寺(りょうせんじ)内石上坊の庭に、日本で始めて蒔いたとされています。
https://jasaga.or.jp/agriculture/nousanbutsu/eisaicha
『歴史にはウラがある』 ひろさちや/著 新潮文庫 2002年発行
「種播く人」のある決意 栄西 より
「お上人、何をなさっておられるのですか……?」
冨春庵(ふしゅんあん)の裏の土地に、栄西は茶の種を播(ま)こうとしていた。
冨春庵に参禅に来ている数人の在家信者が、そこにやって来て尋ねる。
「宋から持ち帰った茶の種を播いているのです」
「ちゃ……? ちゃというのは何ですか?」
「茶というのはね。いわば霊薬です。これを飲めば心が静まり、寿命も延びるのです。禅をやるには、この茶が必要です。中国の禅僧たちは、この茶を服用しています」
「そうですか? そうすると、お上人がはじめてわが国に茶を将来されたのですね」
「いいえ、わたしが最初とうわけではありません、すでに平安朝のころ、わが国に茶が伝わっています。だが、あの時代の茶は、いわば貴族の遊びでした。わたしは日本に、禅と結びついた喫茶の風習を確立したいのです」
栄西はみずからの抱負をそのように語った。
彼は自分を、
――種播く人――
と自覚していた。中国大陸で行われている本物の「禅」と、その禅僧たちが日常的に飲んでいる「茶」と、2つの種を日本の土地に播き、大きく育てたいと夢を見ていた。
場所は肥前国平戸島である。
時は1191年10月8日。
この年の7月、栄西は宋から帰国したばかりである。
栄西は、新しい時代の新しい仏教を求めて宋に渡った。じつは栄西の入宋は、それが2度目であった。2度目の入宋を終えて帰国した栄西は、肥前の平戸に小さな庵を建てて、戒律にもとづいた禅の修業をはじめた。最初に栄西のもとに集まったのは、在俗信者を中心とするわずか10名ばかりであった。しかし栄西はあせらない。自分が播く種がやがて大きく成長することを彼は信じていた。
「さあ、坐禅をしましょう」
栄西は種を播き終えて、庵に戻った。冨春庵には、すでに5、6人の信者が来ていた。