じじぃの「人の死にざま_199_道元」

道元 - あのひと検索 SPYSEE
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道元さんの言葉・・・仏道をならうというは 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d3FqexYKOE4
【いちばんやさしい!】 『日本の仏教がわかる本』 一校舎社会研究会 永岡書店
【座禅による解脱の境地 道元曹洞宗 (一部抜粋しています)
臨済宗とともに日本の禅宗の2大流派をなすのが、曹洞宗である。曹洞宗道元によって日本に伝えられた。臨済宗が座禅と公案を用いるのに対し、座禅を重視するのが曹洞宗の特色である。
仏道への根本的な疑問
道元(1200〜1253)は貴族の家系に生まれたが、幼くして仏道をこころざし、13歳で比叡山に入った。しかし、まもまく仏道への大きな疑問をいだく。それは「人は本来、仏性をもっているならば、なぜわざわざ修行をするのか」というものであった。延暦寺の僧はだれもこの問いに答えられなかったため、道元建仁寺に移った。ここで栄西の教えを受けたという説もあるが、栄西道元が16歳のときに没しているので確証はない。23歳で宋にわたり、満足できる師を探し求めてさまざまな流派を遍歴したあげく、曹洞宗の如浄の門下に入った。
如浄の教えは、身も心も捨て去り一切の束縛から解放され、「心身脱落」という自由な境地に達することであった。そのために、朝3時から夜11時までひたすら座禅をし、居眠りをすれば容赦なく叱責されるという激しい修行が課せられた。道元はこれに耐え、如浄の後継者の資格をえた。
越前の山奥にこもる
27歳で帰国した道元は京都に興聖寺を開き禅の道場とした。しかし、比叡山からの弾圧を受けたため、越前(福井県)の山奥の永平寺に移った。以後は、執権・北条時頼の招きで一度鎌倉に出向いたほかは永平寺にこもり、禅の指導に生涯をささげた。『正法眼蔵』百巻の執筆をめざしたが、病のため中断し、54歳で没した。
ゆかりの地
永平寺 曹洞宗大本山永平寺福井県吉田郡永平寺町の山間にある。道元の時代をしのばせる厳しい修行が今でも続けられている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
道元 (1200-1253) 53歳で死亡。
鎌倉時代、越前に永平寺を建て、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』などを著した道元禅師は、永平寺に住んでから10年目の建長5年の夏から衰えが甚だしくなった。もっともその1年くらい前から身体の異常を訴えていた。
その病状ただごとならずと見た弟子たちの請いにより、京で病を養うべく、8月5日、道元永平寺を出て、やがて京の西ノ洞院の弟子覚念の邸にはいった。
後嵯峨上皇は官医をつかわして日々診察させた。それでも参集する道俗に、道元は説法することをやめなかったが、8月28日午前4時ごろ、死の迫ったことを知って、沐浴(もくよく)して衣をあらため、偈(げ)を残して死んだ。
病名については「腫物」という記録があるが、ともかくも旅行の出来る状態から死までの期間がきわめて短かった点から見て、おそらくガンのように悪性のものであったろう。
時は執権北条時頼の時代、同じころ京では親鸞が、鎌倉では日蓮がそれぞれの信者を集めていた。
「徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり」
                        −−道元−−

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次回の知ってるつもり?!
2001/5/27 放送 曹洞宗 道元禅師
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/010527.html
道元の和歌
「春は花 夏ほとほぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」

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