じじぃの「人の死にざま_1137_松浦・武四郎」

松浦武四郎 - あのひと検索 SPYSEE
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天売島の古文書② 西蝦夷日誌・松浦武四郎 動画 YouTube
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釧路・三重 松浦武四郎連携記念 動画 YouTube
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松浦武四郎 ウィキペディアWikipedia)より
松浦武四郎は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師。雅号は北海道人。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。
【生涯】
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介の四男として生まれる。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
山本亡羊に本草学を学び、早くから諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発し、その探査は択捉島樺太にまで及んだ。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞してからは余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。

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『かくもみごとな日本人』 林望/著 光文社 2009年発行
光芒の如く 松浦武四郎(まつうらたけしろう、1818 〜 1888) (一部抜粋しています)
松浦武四郎は、真の豪傑であった。その強靭なる精神力と恐るべき健脚で、歩いて歩いて、17歳から22歳迄の間に本州の西半分と四国九州の悉(ことごと)くを踏破し、天保の飢饉に疲弊していた諸国の実情を実見して回った。
その頃、頻(しき)りとロシア船が出没して北辺を窺う形勢であったのを知って、武四郎は28歳の弘化2年、俄然渡海して、蝦夷(えぞ)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、利尻、礼文、はては樺太にまでその足跡をしるし、その見聞をば精密に記録して『初航蝦夷日誌』以下夥(おびたた)しい紀行文を著した。
彼は儒学を津藩儒平松楽斉に受け、詩画篆刻(てんこく)何れも玄人の域に達し、仏道にも明るかった。そればかりか蘭学博物学にも通じ、その旅行記に、動物であれ植物であれ、之を科学的に記述することを忘れなかった。
この豪傑の心にはしかし、常に少年のような正義感と温かな人情があって蝦夷先住民族アイヌの人々とも厚い信頼と友情で結ばれていた。
当時松前藩倭人たちがいかに彼らを差別迫害して苦しめていたかを思うとき、常にアイヌの人たちの味方となってそれらの非道と闘った武四郎の心の清らかさは日本人の良心と言っていい。
前後6度の蝦夷探索の間に武四郎はアイヌ語にも習熟してその辞書を編め、その語学力を以て種々の綺談伝説を聴取記録し、かたがた筆鋒鋭く松前藩による先住民迫害を暴露弾劾したために同藩の放った刺客に命を狙われて、5年あまりも潜伏を余儀なくされるということすらあったが、その志を曲げることはついになかった。
維新後新政府に出仕(しゅっし)して開拓判官に任じ、北海道という総名や、各支庁名、さらには道内各地の地名を定めるなど開拓に大きな足跡を残した後、あっさり職を辞して江戸に隠居し、以後は著作を専らとしたが、晩年、再び旅の生活を志して30ヵ国踏破の旅に志し、初めて大台ヶ原に道を開き、70歳にして富士に登頂するなど超人的な活動を続けた。
そして翌明治21年、卒中の為忽然と世を去った。

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