じじぃの「仏教」雑感

【いちばんやさしい!】 『日本の仏教がわかる本』 一校舎社会研究会 永岡書店 (一部抜粋しています)
【日本で最初の禅宗を開く 栄西臨済宗
座禅という仏教の修行法は古くから日本に伝わり、平安時代真言宗天台宗でも取り入れられていた。だが、座禅が禅宗というひとつの宗派として確立したのは、鎌倉時代、宋に渡って禅宗を学んで帰った栄西によってである。
二度宋に渡る
栄西(1141〜1215)は14歳で比叡山に受戒し、28歳のときと47歳のときの2度、宋に渡った。2度目のときはインドまで行く計画であったが、果たせず、かわりに禅宗の一流派である臨済宗を学んで帰国した。
栄西が日本に戻ったころ、朝廷は禅宗は禁止する命令を出していた。まず九州に禅の道場をつくったが、旧仏教界の反発が強く、栄西は『興禅護国論』をあらわして自分の立場を弁明した。書名からわかるように、これは禅宗をおこすことは護国(国を守ること)につながるという主張である。栄西は旧仏教と摩擦をおこすよりは協調的な道を選び、自らも密教の祈祷僧として活動した。
臨済宗を積極的に迎え入れたのは、天皇と貴族にかわって政治の実権を握った武士階級である。栄西正治元(1199)年に鎌倉に招かれて、源頼朝の未亡人北条政子と二代将軍・源頼家の帰依を受けた。将軍家の支援のもとに京都に建仁寺を創建し、朝廷も禅宗を認めるに至った。
茶を伝える
栄西は中国から臨済宗とともに茶を伝えたことでも有名である。宋では、茶は禅寺で広く行われる作法のひとつだった。二日酔いで苦しむ三代将軍:源実朝のために栄西が著した『喫茶養生記』は、日本で最初の茶に関する書物といわれる。
ゆかりの地
建仁寺 栄西が京都東山に建てた臨済宗の道場。室町時代には、臨済宗の中心的寺院である京都五山のひとつとなり栄えた。現在は臨済宗建仁寺派の本山である。
臨済宗とは
座禅は、釈尊菩提樹の下で悟りをえたときの瞑想に由来する修行法であり、禅宗は6世紀頃、インド人の僧達磨によって中国で始められたとされる。釈尊の悟りの内容は言葉で言い表したり伝えたりすることはできず、一人一人が座禅によって釈尊と同じ体験をしなければえることができないというのが、禅宗の考え方だ。したがって、禅宗では他の宗派のように根本経典を定めない。座禅によって、個人が自ら悟りをえるのである。
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【座禅による解脱の境地 道元曹洞宗
臨済宗とともに日本の禅宗の2大流派をなすのが、曹洞宗である。曹洞宗道元によって日本に伝えられた。臨済宗が座禅と公案を用いるのに対し、座禅を重視するのが曹洞宗の特色である。
仏道への根本的な疑問
道元(1200〜1253)は貴族の家系に生まれたが、幼くして仏道をこころざし、13歳で比叡山に入った。しかし、まもまく仏道への大きな疑問をいだく。それは「人は本来、仏性をもっているならば、なぜわざわざ修行をするのか」というものであった。延暦寺の僧はだれもこの問いに答えられなかったため、道元建仁寺に移った。ここで栄西の教えを受けたという説もあるが、栄西道元が16歳のときに没しているので確証はない。23歳で宋にわたり、満足できる師を探し求めてさまざまな流派を遍歴したあげく、曹洞宗の如浄の門下に入った。
如浄の教えは、身も心も捨て去り一切の束縛から解放され、「心身脱落」という自由な境地に達することであった。そのために、朝3時から夜11時までひたすら座禅をし、居眠りをすれば容赦なく叱責されるという激しい修行が課せられた。道元はこれに耐え、如浄の後継者の資格をえた。
越前の山奥にこもる
27歳で帰国した道元は京都に興聖寺を開き禅の道場とした。しかし、比叡山からの弾圧を受けたため、越前(福井県)の山奥の永平寺に移った。以後は、執権・北条時頼の招きで一度鎌倉に出向いたほかは永平寺にこもり、禅の指導に生涯をささげた。『正法眼蔵』百巻の執筆をめざしたが、病のため中断し、54歳で没した。
ゆかりの地
永平寺 曹洞宗大本山永平寺福井県吉田郡永平寺町の山間にある。道元の時代をしのばせる厳しい修行が今でも続けられている。
曹洞宗とは
曹洞宗における修行はひたすら座禅をすることである。考案と座禅からなる臨済宗の修行法を「看話禅」というのに対し、臨済宗の修行法は「黙照禅」とよぶ。ただし、座禅によって悟りをえようとするのではない。悟りを修行の目的であると考えているかぎり、真の悟りはないからだ。悟りを求める心の動きも一種の束縛にすぎない。「心身脱落」の境地に至るのは、あらゆる束縛から自由になったときだ。
道元の教えの基本にあるのは、修行と悟りは同時にあるという思想である。道元は若いときに、「人は本来仏性をもっているならば、なぜわざわざ修行をするのか」という疑問にとりつかれた。だが、このように考えたのは、仏性を修行の彼方にある目的とみなしていたためであった。そうではなく、仏性は修行と同時にある。仏性を求めて修行するのではない。人はもともと仏性をもっているからこそ、修行しながら自らの仏性を深く自覚するのである。
また、修行と仏性を悟っていることが同時であれば、修行の終わりということも成り立たない。悟りを開いているかぎり、修行も永遠に続いていくとされる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
うちのばばぁ(女房)が東金のA病院に入院して4日目である。
いちごの季節も終わり、スーパーの陳列棚にアメリカンチェリーが並ぶようになってきた。出始めなので、少し、高いがアメリカンチェリーを買って朝、病院に行った。ばばぁと一緒に食べたのだが、うまいのかどうか反応が無い。
夕方になって、看護婦さんがばばぁに「お通じはありますか」と言うので、じじぃがばばぁに聞くと「大」は入院してから出てないという。急いで、家に戻り、通販で買った漢方の便秘薬を持って戻った。
夕飯の食事が終わり、部屋に戻ってきたので、ばばぁに「まだ、アメリカンチェリーが残っているよ」と見せると「ここで、食べちゃいけないんだよ」と怒られてしまった。看護婦さんが食べたものをチェックしているためだが、今まで、ボケっとしていたのが反応した。少し、良くなったのだろうか。
ベットの端で読んでいた【いちばんやさしい!】 『日本の仏教がわかる本』を読み終えた。
本の中で「一人一人が座禅によって釈尊と同じ体験をしなければえることができないというのが、禅宗の考え方だ。したがって、禅宗では他の宗派のように根本経典を定めない。座禅によって、個人が自ら悟りをえるのである。」というのがあった。
お釈迦様も菩提樹の木の下で瞑想することで悟りを開いた。理屈はどうであれ、同じ体験をしてみるのが一番理に合ったやりかたなのかも知れない。
この本の中で明恵というお坊さんを始めて知った。釈迦の遺跡をたずねるためにインドへの旅行を計画したと書いている。仏教は中国経由で日本に伝わったが、日本のお坊さんはできれば、お釈迦様の生まれた地、インドで修行をしたかったのではないだろうか。日本のお坊さんにとって、インドはあまりにも遠かったのだった。