じじぃの「神話伝説_183_法華経・不軽菩薩(デクノボー)」

100分de名著 法華経 第4回「“人間の尊厳”への讃歌」 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=k4oSt8krYn8
宮沢賢治 「雨ニモマケズ手帳」

叙事詩 人間賛歌 2008年9月のブログ記事一覧
●人間賛歌 「新・仏教教室」 三十
法華経賛歌みたいになりましたが、この時代は有名人だけでなく、市井の名もない一般人のあいだでも、法華経が広く信仰されていたことが和歌にたくさん残されています。
余談ですが、
いまの政治家の中でもきわだっている石原東京都知事は、「法華経に生きる」という著書を出したくらいですから、熱心な法華経の信者であると思います。
経済界では故人ですが、元経団連会長の土光敏夫が熱心な法華経信者であったことが知られています。
土光の著書「正しいものは強くあれ」は法華経の正義をたたえた本であると言えるでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/katu5312/m/200809
100分de名著 法華経 第4回「“人間の尊厳”への讃歌」 2018年4月23日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光島津有理子 【講師】植木雅俊(仏教思想研究家) 【ゲスト】安部龍太郎(作家)
どんな暴力や迫害にあおうとも、ひたすら他者に内在する仏性を尊重し礼拝し続ける常不軽菩薩。
経文などを全く読めずともやがて悟りを得ていくという姿には、法華経の修行の根幹が凝縮している。すべての人間に秘められた可能性を信じ尊ぶ行為こそが、自らの可能性を開いていく鍵を握っているのだ。第四回は、歴史小説等伯」を書いた直木賞作家の安部龍太郎さんとともに法華経を読み解き、理想の人間の生き方に迫っていく。
法華経』のクライマックスともいえる「常不軽菩薩品」(第二十)です。
宮沢賢治が「雨ニモマケズ」で「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」としていた「デクノボー」は、この常不軽菩薩をモデルにしていたと言われている。
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20180425-31-33861
法華経を生きる』 石原慎太郎/著 幻冬舎 1998年発行
我を捨てるということ より
仏教哲学の究極の頂である実相、それはものごとの見た目には届かぬ深い深い奥のそのまた奥の構成要素である素粒子の、そのまたもう一つ奥にある他の何かでは決してない。それは、やがてその内には人間の有力な方法の一つである科学の手法によって新しい知見としてもたらされたりするようなものでは決してない、と私は思う。
その所以は、実はお経の中にたった一ヵ所、『実相』とは何なのかやや具体的に釈迦が説かれたというくだりに依るものです。前には、そんなものはどこにも無いと書いていたのにといわれそうだが、実は在る。が、在るようで、無いともいえる。
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ここは法華経の触りの中の触りですから、余計な解釈は無用で、敢えて全文を引用するのでそのまま読んでもらいたい。読めば必ずそのまま伝わってきてよくわかります。
「爾の時に世尊、諸の菩薩の、三たび請じて止まざることを知しめして、之に告げて言わく、汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を。
 一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。
 然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり。
 譬えば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽さんが如き、諸の善男子、意に於いて云何。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得べしや不や。
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 若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ちきょう恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わじ。
 是の故に如来、方便を以って説く。比丘当に知るべし。諸仏の出世には、値遇すべきこと難し。
 所以は何ん。諸の薄徳の人は、無量百千万億劫を過ぎて、或は仏を見る有り、或は見ざる者あり。此の事を以っての故に、我是の言を作す。
 諸の比丘、如来は見ること得べきこと難しと。
 斯の衆生等、是の如き語を聞いては、必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。是の故に如来、実に滅せずと雖も、而も滅度すと言う」
釈迦はここで仏の本体を解き明かす教えを通じて、人間の『存在』の根源的な意味、その永遠性について朗々と説き教えている。
それは一種の三段論法であって、前にも述べたように釈迦はあくまで人間から発して仏となったのであり、仏である自らの非凡さ、その尊さを教えることで、誰でも仏となれるのだ、誰しも仏性を備えているのだ、という前提を踏まえて、実は人間を讃えているのです。
だからこの章の少し後の第二十番目の章「常不軽菩薩品」では、昔々この世にいたというある修行者の物語として聞かせている。
その行者は余りお経を読むこともなく、もっぱら他の行者や在家の信者たちを一方的に礼拝して回っていた。曰くに、
「私はあなたがたを敬いたい。決して軽んじてはしませんぞ。なぜなら、あなたがたは皆それぞれの菩薩の道を行じて、やがて必ず仏になられるのだから」
礼拝される方の誰もが嫌がって、
「余計なことをするな。俺はお前なんぞのいい加減な請け合いを信じやしないぞ」
といって棒で叩いたり石をぶつけたりすると、その度走って逃げはするが、なお離れた遠くから同じことをいって相手を拝んでみせる。
行者や信徒たちはそんな相手を馬鹿にして、「いつも決してあなたを軽しめませんよ」という言葉をとって彼に「常不軽」という渾名をつけた、と。
しかし最後に釈迦は、昔々、そうやって人々を礼拝し彼らの仏性を讃えた常不軽なる菩薩は実は自分自身だったのだと明かしています。つまり釈迦はその前世ではまだ仏になる前の菩薩であり、そうやって人々を導く功徳を積んだが故に仏になり得たのだといっているのです。こうした前世と今世との同じシテュエ―ションの繰り返しは法華経の特徴の一つで、教える者、教えられる者、そしてそれで覚りに導く者、覚らされる者という関わりの反復は、それによって人間の存在の、そうしたパターンをくり返すことによっての永続性、さらに永遠性を明かすための効果的なレトリックとなっています。