じじぃの「人の死にざま_446_則天・武后」

則天武后 - あのひと検索 SPYSEE
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【閲覧注意】残虐。それでも惹かれる中国三大悪女まとめ 動画 YouTube
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武則天 ウィキペディアWikipedia)より
武則天は、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。
【経歴】
皇后となった武則天は病気がちな高宗に代わり垂簾政治を行った。初唐は隋と同じく基本的に貴族政治であり、関隴貴族集団と呼ばれる貴族たちが権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃は科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用とそれによる国政運営には限界があった。武則天は貴族政治を嫌い、新しい人材を積極的に登用した。この時期に登用された人材としては狄仁傑・姚崇・宋蓂などがいる。これらはみな低い身分の出身であり、貴族政治体制では出世が見込めない人物だった。武則天はただ単に低い身分に主眼を置いたのではなく、その登用には才能と忠誠を重視している。姚崇と宋蓂は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた人物である。
武則天は外交も積極的に行い、660年(顕慶5年)には新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼしたのち、倭国(日本)・旧百済連合軍と唐・新羅の連合軍(羅唐同盟)とが戦った白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、さらにその5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし(麗唐戦争)、遼東の安定を実現している。
出自を問わない才能を発掘する一方で、武則天は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族たる武氏一族を重用し、その専横を招いた。また佞臣と呼ばれる許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排斥、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武后の廃后を計画するが、武后はこの計画を事前に察知、政変を未然に防止している。
帝室が老子の末裔だといわれ「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。武則天は諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したといわれる『大雲経』を作り、これを納めるための「大雲経寺」という寺院を全国の州にそれぞれ作らせた。これが後の日本の国分寺制度の元になった。
洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天をモデルにしたといわれており、東大寺仏の手本となった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
則天武后(そくてんぶこう) (624-705) 81歳で死亡。 (一部抜粋しています)
唐の太宗の下級の一妾でありながら、太宗が死ぬとその子の高宗を誘惑して妾となり、皇后と、それに相ならぶ蕭淑妃を捕え、四肢を切断して酒壷に投げこんで殺し、さらに皇帝に代わって、彼女みずから政務をとった。
彼女は、旧王室につながる者は、女子供、その家臣におよぶまでほとんど根だやしにしたのみか、自分の一族も、自分の気にくわぬ者は兄弟といえどもこれを殺しつくし、あたかも一生かかって巨富を築いた者が死に臨んでも、その財産を遺してやるに値する者がない、という事態にひとしい運命をみずから作り出した。
武功の望んだのは、ただ彼女自身のあらゆる欲望の充足であった。彼女のあやつり人形と化した夫の高宗が死んだとき、彼女はすでに60歳になっていたが、みずから聖母神皇とか聖神皇帝とか称し、徹底的な恐怖政治をしき、大宮殿を建て、美男のよる「男の後宮」を作って肉欲をほしいままにした。
しかし彼女は、残忍、狂気、濫費癖の一面に、人間離れのした冷徹、寛大、周到なところがあって、最晩年に至るまで反抗者を成功させなかった。武后は、それまでの大唐の儒教政治の悪弊を、鉄腕をもって破壊清掃しようとした、真の革命的英雄であったとする見方もある。
よかれあしかれ、武后は古今のあらゆる独裁者をたばにして一身に集めたような女性であった。
最後の年の1月になって、やっとクーデターが起こったが、81歳の武后はなお男妾を侍(はべ)らせていたといわれる。彼女は幽閉され、武后党の者たちが処刑され、旧王室が復活するのを見なければならぬ羽目になったが、彼女自身は依然ぜいたくな囚人として、その年の11月に悠々とこの世を去った。

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