じじぃの「色狂いの女!本当は恐ろしいほど残酷な」

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女帝秘辛(2/6):武則天 挑選男寵看鼻子!? 動画 YouTube
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『優雅で残酷な悪女たち―その数奇なる生涯』 桐生操/著 大和書房 2001年発行
邪魔者を殺しつづけた好色な女独裁者 (一部抜粋しています)
のちに則天武后として権力をふるい、その残酷な独裁者ぶりを恐れられることになる武照は、一介の材木商の娘として生まれました。
637年、13歳のときには美貌を認められて、唐の太宗の後宮に入ります。しかしその待遇はそれほどよかったわけではなく、計122人の後宮のなかでも下から数えたほうが早い"才人"という地位でした。しかも、太宗が死ぬまでの13年間、ずっとその地位のままだったといいますから、あまり太宗から可愛がられてはいなかったのでしょう。
このころの武照の性質をよく表す、こんな話が今に残っています。
あるとき太宗が、師子聡という名の駿馬を手に入れたのですが、血統は良いものの大変な荒馬で、皆が調教にほとほと音を上げていました。ところがある日武照が進み出て、こう言ったといいます。
「わたしならきっと馴らしてごらんにいれます」
「そなたが? いったいどうするというのだ」
帝は、大の男が何人かかっても駄目だったのに何を言い出すのかと、呆れ顔で武照を見つめました。
すると武照は答えてこう言いました。
「3つの道具を用いるのです。まず、馬が暴れたら鉄の鞭で叩きのめします。それでも言うことをきかないなら、鉄の槌を頸に突き立ててやります。そしてそれでもらちがあかないなら、匕首(ひしゅ)で喉を掻き切ってやればよろしいのです」
もしかしたら太宗に寵愛されない日ごろの恨みをこんな言葉で当てこすろうとしたのかも知れませんが、彼女がいかに気性の激しい女だったかが察せられる言葉ではありませんか。
そのセリフを聞いた太宗は、なんと男まさりな女だろうと思い、武照にますます嫌気がさしたようです。しかし一方で、軟弱な皇太子の李治(りち)のほうは、そんな彼女にかえって魅了されたのですから皮肉なものです。
武照と李治に関しては、こんなエピソードもあります。太宗が病床にあったとき、見舞いにきた李治が父に薬湯を飲ませようとしていると、控えの間から武照が出てきて彼の袖をとって薬を飲ませるのを手伝いました。それが終わると李治は彼女の耳元で何か囁いてから、部屋を出ていったのです。
武照が手水を持って厠の前の廊下で待っていると、李治が厠から出てきて手を洗いながら、「東の脇部屋で待っていてください」と囁いて通り過ぎました。
一足先に東の脇部屋で待っていた武照を、間もなく入ってきた李治がいきなり激しく抱きしめます。そして慌ただしい情事を終えて李治が出ていったあと、武照はすばやく衣装の乱れをなおし、何くわぬ顔をして控えの間に戻っていったというのです。
貞観23年に太宗が死に、李治が高宗として即位します。当時の習慣にしたがい、武照は仏門に下って尼になりました。ところがその3年後、彼女の肉体を忘れられないでいた高宗に呼び寄せられた武照は、再び後宮に迎え入れられたのです。
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ある日のこと、皇后は武照のもとを訪れましたが、ちょうど庭に散歩に出ていたため武照は留守でした。そこで、皇后は仕方なく一人で寝かされていた赤ん坊をちょっとあやしただけで、そのまま帰っていきました。
ところが、そのすぐあとに部屋に戻ってきた武照は、いきなりけたたましい悲鳴をあげ、泣き叫んだのです。
「誰か! 誰か! 赤ちゃんが、赤ちゃんが大変!」
武照の叫び声が後宮中に響きわたりました。高宗が駈けつけると、そこには生まれたばかりの赤ん坊が、首を絞められて死んでいたのです。高宗は周囲の者たちにそれまでの経緯を問いただし、少し前に皇后が赤ん坊を見に来て帰って行ったことを知ります。
当然、人々の疑いは皇后に向けられました。皇后が武照をこころよく思っていないことは、宮廷中の周知の事実だったのです。
「まさか、どうしてわたしがそんな恐ろしいことを」
皇后は必死で身の潔白を主張しましたが、それを立証する手だては何もありませんでした。
実際は皇后が帰って行ったあと、こっそり部屋に戻ってきた武照が、自らの腹を痛めて産んだ赤ん坊の首を絞めて殺し、蒲団をかけておいたのでした。彼女にとっては、自分の子供さえ、野心を実現するための道具に過ぎなかったのです。
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それから14年間にわたって続く武后による治世は、粛清政治と密告制度を基本にした恐怖の時代でした。武后はまず、自らの地位を脅かす恐れのある陰謀は早いうちに刈り取らねばならないと考え、西暦686年に名高い密告制度を開始します。
最初は役所に、四角い銅の箱を置くだけのものでした。東の箱は延恩(えんおん)といって仕官の陳情、西の箱は無実の訴え、南の箱は招諌(しょうかん)といって政治に対する意見、北の箱は通玄(つうげん)といって天変地異や不穏な言動をする者について、それぞれ投書することができました。民の正直な声をきき、政治を行う参考にしたいのだというのが設置の理由でしたが、実のところ武后によって重要なのは北の箱だけでした。
北の箱は、他人を羨み、機械があれば陥れたいと思っている人間にとっても絶好の機会を与えるものでした。北の箱ができたおかげでいったん根も葉もない中傷をされてしまえば、本人はもとよりその家族にまで、苛酷そのものの運命が待っていたのです。
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嵐のような粛清のなかで、数百人にのぼる宗室の人々は、次々と些細な口実によって殺されていきました。そんななかで688年秋、宗室の一員が武后に対して立ち上がります。高宗の弟の越王(えつおう)の子が、各地の散らばる王族に呼びかけ、洛陽に向かって軍を進めたのです。が、武后の向けた大軍にたちまち蹴散らされ、反乱は未然に潰されてしまいました。
この反乱は、唐室の者を徹底的に排除しようとする武后にとっては、まさに思う壺でした。武后の手先には、越王が王族たちに決起を呼びかけるために送った手紙が揃っており、周興や来俊臣らはこれを何よりの証拠に、王族たちをその兄弟や妻子や孫まで捕えて処刑したのです。太宗の4人の兄弟とその一族、高宗の2人の兄弟も殺され、廃太子の李賢の2人の子も殺され、唐室の親戚も皆殺しにされました。
9月9日の重陽の日、武后はついに晴れて帝位につきました。国号は「周」、年号は「天授」となり、彼女は「聖神皇帝」を自称し、唐室に代わって武一族の12人が親王となります。
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晩年の武后は、もっぱら色の道に専念しました。実は武后は、特大のワギナを持っていることでも有名だったのです。
こんな笑い話があります。彼女が不在だったある夜、彼女の部屋に泥棒が入りました。留守番をしていた2人の侍女は、とっさに部屋にあった宝石類を自分の大切な場所に隠してしまったため、泥棒はたいしたものは見つけられず、結局、棚のうえの大きな純金の置物だけを抱えて逃げてしまいました。そのあとで侍女の1人が無念そうにひとこと。「武后さまがいられたら、あの置物もとられなかったのに・・・・」
そんな特大型のワギナでしたから、当然ふつうの男が相手では間に合いません。武后は権力にものをいわせ、国中から巨根を持つという噂の男たちを探させては面前に連れてこさせました。そのなかでも特にお気に入りだったのが、晩年に召し抱えた薛懐義と、易之・昌宗の張兄弟と、如意です。
薛懐義はもとは洛陽の大道で薬を売っている香具師でした。得体の知れない男でしたが、大変な巨根の持ち主だという噂でしたので、さっそく武后は彼を面前に召し出しました。おおいに期待しながらためしてみると、たしかに噂どおりの立派なもので、そのうえ疲れ知らずの精力絶倫でもあり、一晩中、荒々しく武后を攻めたてたといいます。
じつはこのとき武后はすでに70余歳でしたが、たちまち薛懐義を気に入り、僧侶に仕立てて召し抱えるようになりました。のちの武后が弥勒菩薩の化身だという説を唱え出したのもこの男ですし、武后に明堂と呼ばれる広大な宮殿や、その背後に300尺もの高さの天堂を建立させたのも、彼でした。「万象神官」とも呼ばれた明堂には、高さ250尺もある巨大な大仏堂が安置されていたといいます。
初めのうちは神妙に武后に仕えていた薛懐義でしたが、もともとがならず者のような男です。ちやほたされるのをいいことに、だんだんと好き勝手に振る舞うようになっていきました。僧生の緋の衣をひるがえして宮中をのし歩き、あらくれ坊主たちとぐるになって女官に乱暴するは、宮中からものを盗むは・・・・。
それでも夜の床でちゃんと励んでいるうちは武后も見逃していたのですが、やがてそれもおろそかになり、あげくは国宝の天堂に火をつけるという暴挙に出るに至ります。火は天堂から明堂に延焼し、折から起こった暴風で大仏もずたずたになってしまいました。
さすがの武功も仕方なく家臣どもに命じて薛懐義を捕らえ、ついに殺してしまいます。その死体をまえにして、びくとも動かぬいちもつに名残惜しげにさわった武后は、「もうこれともおさらばか」とつぶやいたといわれています。

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どうでもいい、じじいの日記。
『優雅で残酷な悪女たち―その数奇なる生涯』という本を見ていたら「邪魔者を殺しつづけた好色な女独裁者」があった。
好色な女独裁者とは「中国三大悪女」の一人である唐の則天武后のことである。
日本で言えば大奥の中の一人にすぎなかった女性が唐の皇帝にまで登りつめた。最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶようになった。どんな女性だったのだろうか。
「誰か! 誰か! 赤ちゃんが、赤ちゃんが大変!」
権力を手に入れるために、自らの子供までも絞殺して、その罪を皇后になすリつけたのである。哀れな皇后は、両手足を切断され、生きたままで酒だるに漬けられて殺された。
中国では昔から「罪は九族に及ぶ」といわれ、1人が罪を犯すと九親等までの親族を皆殺しにするという刑罰制度が清の時代まで続いていた。
この則天武后は自分にとって邪魔者を次々と殺し、その親族までも殺していった。
「もうこれともおさらばか」
則天武后は80歳を過ぎても男妾を持ち、セックスを楽しんでいた。
自分の欲望のままに生きた女、こんな人生もあるのである。