じじぃの「人の死にざま_762_李・世民(太宗)」

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貞觀天子李世民 李世民的勇 動画 YouTube
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歴史幾狼都有 - 十大帝王 ep4 唐太宗 李世民 (pt1) 動画 YouTube
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太宗(唐) ウィキペディアWikipedia)より
太宗(たいそう)は唐朝の第2代皇帝。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い中国史上最高の名君の一人と称えられる。
【経歴】
4歳の頃、父・李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」(『新唐書』本紀第二による)と言った。そのため世民という諱がついたというエピソードが伝えられている。16歳のとき、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。
歴史的評価
後世、名君の中の名君と称えられた太宗であるが、その像にはかなりの粉飾が見られる。『旧唐書』の編纂に参考資料とされた太宗実録の編修をした許敬宗という人物は、賄賂によりその記録を歪曲することがあったと両唐書の許敬宗伝に書かれている。また、即位に関して兄の李建成や弟の元吉をクーデターで殺害しており、高句麗への2度の遠征に失敗している。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
不世出の名君 李世民(りせいみん) (一部抜粋しています)
李世民は、唐の第2代皇帝(在位626-649年)である。彼は中国史上「不世出の名君」と讃えられたほど優秀な皇帝である。
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その後、魏は「晋」に代わるが晋も中国全土を統一することもなく、再び中国は分裂していく。それを統一するのが「隋(587〜618年)」である。ところが、この隋も後継者に恵まれなかった。隋の時代、日本はちょうど聖徳太子の時代である。聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に送った「日出る処の天子…」という国書は有名だが、この国書を受け取って激怒したというのが、隋の第2代皇帝・煬帝である。これは余談だが○帝と書いて「○だい」と読むのは、悪帝と思って間違いない。他にも廃帝と書いた場合は「はいたい」と読むように、中国の読みには発音上の区別がなされている。
煬帝の「煬」という字も「物を火で焼く」という意味なので、良い文字とはいえない。この諡(おくりな)には、「自分の欲望だけを優先したとんでもないヤツ」という怨嗟(えんさ)に充ちた思いが込められているのだ。
この煬帝を亡ぼして唐を建国したのが、李世民の父・李淵(りえん)である。
李世民が生まれたのは598年。煬帝が帝位に就く前のことである。父の李淵も有能な軍人だったが、李世民もその才を受け継いでいた。そして彼は卓越した軍事能力をもって、父の挙兵を促し、その後も李淵が帝位に就くバックアップをし続けたのである。事実、李淵が帝位に就いたのは618年だが、そのとき地方にはまだ隋の勢力が残っており、戦いは完全には終っていなかった。その隋の残存勢力を鎮圧したのは李世民だった。父である高宗(こうそう)は、これらの功績に報いるため、李世民に「天策上将(てんさくじょうしょう)」という臣下としては最高の地位を与えた。
しかし、李世民李淵の次男である。どれほど武功をたてても、次期皇帝になれる立場ではなかった。では、次男である李世民が、なぜ帝位を継ぐことができたのだろう。そこには英雄伝説にありがちないきさつが伝えられている。これは私は後世の潤色だと思っているのだが、先に手を出したのは兄の李建成(りけんせい)だと歴史書は伝えている。
長男である李建成が、弟李世民の功績が大きいことを妬み、毒殺を図ったというのだ。
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しかし同年、帝位に就いてからの彼は、常に厳しく自分を律し、家臣の諫言(かんげん)に耳を傾け、良い治世者となる道を模索し続けた。玄武門の変の際に李建成の側についた魏徴(ぎちょう)を取り立て、宰相にまで起用したのは、彼の器の大きさを物語っている。彼の治世は、その年号をとって「貞観(じょうかん)の治」と呼ばれ、その善政ぶりは今も高い評価を受けている。
また彼は、皇帝たるものはこうでなければいけないという「皇帝の心構え」を記した『帝範(ていはん)』という書を著している。この書はあまり知られていないが『貞観政要(じょうかんせいよう)』という彼と臣下の間で交わされた政治問答をまとめた書は、帝王学の教科書として今なお広く読まれている。
これは私の想像だが、李世民には、自分は帝位を得るために兄弟とその息子を殺すという苦逆をしなければならなかったという思いが、反省して深く刻まれていたのかもしれない。だからこそ彼は、より良い皇帝たらんと人一倍の努力をしたのではないだろうか。
いずれにしても、唐というその後300年近くも繁栄を続ける大国の基礎を築いたのが、李世民であったことは間違いない。

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