じじぃの「人の死にざま_937_西太后」

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【閲覧注意】残虐。それでも惹かれる中国三大悪女まとめ 動画 YouTube
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西太后 ウィキペディアWikipedia)より
西太后(せいたいごう)は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。
中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。
紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。
西太后に関する俗説】
西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば、
西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。
・最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。
・いわゆる『葉赫那拉の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。
・ライバルの麗妃の手足を切断して甕の中で飼った。
などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。
なお、近年の研究で西太后に対する再評価がされ、満漢全席による中国料理の基礎の確立や列強諸国に支配されていれば失っていたかもしれなかった京劇の庇護など中国の文化や建築物を守っただけでは無く、時に強権的になってまで人臣を掌握し、中国の国力を他国に知らしめる手腕を発揮した事が判明。「悪女」どころか本当は「優れた統治者」であったという評価も成され始めている。また、側近を務めた事がある女性が晩年に著した手記には、西太后がどれだけ孤独で悲壮な立場に立たされていたか、を克明に記した文節がある。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
西太后 (1835-1908) 73歳で死亡 【執筆者】林梓生 (一部抜粋しています)
1861年清朝第9代の咸豊帝が死亡した。皇后に子がなく、側室西太后の子、同治帝が即位した。
帝は16歳で后(きさき)を選ぶことになった。しかし帝は、母の推薦した候補を選ばず、別の女性と結婚してしまう。西太后は激怒し、以後、2人を徹底していびり抜いた。
「皇后はいろいろ勉強で忙しいから」と、同治帝が后の寝室を訪ねることを禁じた。面白くない帝は、臣下の案内で歓楽街に通うようになった。やがて病気になる。表向きは天然痘とされているが、実は梅毒だといわれている。
75年1月のできごとを、臣下が次のように書き残している。
ある日、皇后はまた西太后から意地悪く叱(しか)られた。皇后はこっそり帝を訪れ、泣いて無実を訴えた。
しかし西太后は皇后の動きを察知し、あとをつづける。沓(くつ)を脱いで帝の部屋に入り、カーテンの陰に隠れて耳をそばたてた。
話の内容に怒った西太后はカーテンから飛び出すと、皇后の髪をつかんで引きずり回し、金属製の付けつめをしたままで皇后の顔をたたいた。ほおが切れて血が噴き出した。これを見た同治帝は、恐怖で気を失ってしまった。
この事件から間もなく、同治帝は死ぬ。19歳だった。頼りとする帝を失った皇后は、2ヵ月後に後追い自殺をした。懐妊の身だった。
次の皇帝には、西太后の妹の子、光緒帝が即位した。4歳だった。西太后の摂政政治が続いた。
幼い帝がいすに座って諸大臣の報告を聞く。その後ろの簾(すだれ)のかげに西太后がいる。垂簾(すいれん)政治である。
摂政は西太后と、咸豊帝の正妻である東太后の2人で行うことのなっていた。しかし東太后は読み書きができない。西太后は、おとなしい東太后を抑え、実権を握っていく。
西太后は、光緒帝に自分のことを「皇帝のお父上」と呼ばせた。叱りつけ、つえでたたく西太后に、光緒帝はおびえ通しだった。
あるとき、西太后にたたかれて帝の歯が折れ、出血した。心配した側近が町医者を読んで治療させた。これを知った西太后は激怒し、その側近を殴り殺させた。
      ・
60年、アロー号事件に端を発した第2次アヘン戦争では、英仏連合軍が北京に侵入する。北京から逃れようとする咸豊帝に、西太后は反対した。
「帝は北京にとどまり、事態の収拾にあたられるべきです」
しかし帝は熱河に逃れ、翌8月に死亡する。そこで同治帝が5歳で即位したのである。
当時、朝廷は皇族の粛順らが権力を握っていた。西太后は咸豊帝の弟、恭親王を味方につける。同年11月、クーデターを起し、粛順を殺害して実権を握った。
親王は聡明で、クーデター後は朝廷の最高機関である軍機処を掌握し、めきめきと力をつけた。
今度は、恭親王に対する西太后のいびりが始まる。9歳の同治帝の名前で、恭親王非難の文書を書きまくるのである。
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89年、17歳になった光緒帝が親政を始める。西太后離宮の頤和(いわ)園に退いた。しかし実態は西太后の独裁だった。
94年、日清戦争。清国は自慢の北洋艦隊が壊滅し、敗れた。
西太后はこの年秋に迎える自分の還暦を祝うため、頤和園の改修を急いでいた。海軍予算の大半、約4000万ドルが工事に流用された。
北洋艦隊は、かって日本艦隊をはるかにしのいでいた。しかし、日本が着々と軍の近代化を図ったのに対し、清国は頤和園の改修工事が始まった88年以来、軍備はまったくなおざりにされていた。
日本と講和交渉に当たった李鴻章は「海軍経費が予算通り出ていたらあのような大敗には至らなかった」と周囲にもらしている。
      ・
1908年、光緒帝が崩じ、翌日には西太后が死ぬ。光緒帝37歳、西太后73歳だった。
彼女が決めていた通り、光緒帝の弟の子、溥儀(ふぎ)が2歳で帝位を継いだ。ラストエンペラー宣統帝だ。
時代は激しく動いていた。11年、孫文らの辛亥革命が起きる。清朝は滅んだ。
西太后はその執拗ないびりで、自分の権力をおびやかすすべての芽を摘み取った。実の息子であっても権力を引き渡すことを拒んだ。
彼女にとっては自分の権力だけが関心事であり、死後も清王朝が存続しようがしまいが、そんなことは何の意味がなかったのだろう。

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