じじぃの「人の死にざま_1722_康・有為(清末思想家・政治家)」

康有為二三事片花(1):康有為是誰? 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gqGwhredkSg
康有為 世界史の窓
康有為(こう ゆうい、1858年 - 1927年)は清末の政治家、学者。
日清戦争の敗北に衝撃を受け、政治と社会の革新の必要を光緒帝に建言し、採用されて1898年の戊戌の変法の中心人物となった。しかし西太后ら保守派のクーデター(戊戌の政変)によって失脚、日本に亡命した。
日本では同じく亡命してきた弟子の梁啓超らとともに改良派または保皇党と言われ、清朝の改革を唱えて日本の有力政治家に支援を求めた。彼らの主張は、あくまで清朝の改革であり、そのもとで立憲君主政を実現することであったので、続いて亡命してきた孫文らの清朝打倒、共和政樹立の革命運動とは対立した。
http://www.y-history.net/appendix/wh1403-025.html
紫禁城の黄昏(上)』 R・F・ジョンストン/著、中山理/訳 祥伝社 2005年発行
1898年の改革運動 (一部抜粋しています)
康有為は、出身地名にちなみ、弟子から「南海」とも呼ばれていたが、19世紀最後の10年間に繰り広げられたシナの改革運動では、まぎれもなく一番傑出した人物だった。皇帝に対して不動の忠誠心を持っていたことからすると、康は穏健派に分類されるにちがいない。しかしながら、1898年に支那の運命を牛耳っていた大多数の人々の目から見れば、康有為が皇帝に上書を行なっていたために、帝国内で最も危険な過激主義者の烙印を押されていたのである。その上書が直接的な引き金となり、かの有名などたばた改革の「百日間」が始まった<訳注.康有為が立役者を演じた戊戌(ぼじゅつ)の変法という改革運動のこと>。
康有為という人物とその著作のために、シナと満州で「立派な社会的地位」にある官僚階級は恐怖と憎悪の念を抱いたけれども、それは中世のヨーロッパで、異端や魔術が巻き起こした戦慄と嫌悪感に匹敵するかもしれない。あるいは今日の共産主義ファシズムヒトラー主義に対し、それぞれの敵対者が抱きつつある戦慄と嫌悪感に匹敵するかもしれないのである。
失礼を顧(かえり)みずお話するならば、1898年の康有為は、当時の品の「大ボルシェビキ」(ともいえる過激な革命的共産主義者)だったのである。康の根本的な見解は生涯変わることがなかったにもかかわらず、康は15年も経たないうちに「がんこな保守主義者」とか、反動分子とか嘲笑され、冷たく蔑(さげず)まれて脇へ除(の)けやられる運命にあった。数多くの宗教的、社会的、政治的改革者がたどる宿命というものは、時代と場所こそ異なれ、所詮は同じようなものである。
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1898年の春、光緒帝と康有為が初めて顔を合わせたとき、この若い皇帝が康有為に深い印象を与えたことは疑う余地がない。それから何年も経ってから、私は康とあの都市に起こったいろいろな出来事を話し合う機会が幾度かあったけれども。康はいつも崇敬に近い賞賛の眼差しを光緒帝に向けていて、それ以外の視点で皇帝について話したのを一度も耳にしたことがなかった。
もし自分の庇護者である君主に、知性や愛国心や熱意が欠けていると知ったなら、当時の熱烈な改革論者は、すでに勢力を増しつつあった階層の人々に加わっていたことだろう。それらの人たちは、君臨する帝室の「天命」は尽きており、シナの進歩をふさぐ障害物の満州王朝は除外されねばならぬと信じていた。
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そして康有為が上書した結果、有名な一連の改革が発布されることとなった。その詔勅は1898年の夏の間に息づく暇もなく次々と公布された。すなわち「百日間」としてしられる期間である。これらの改革の詔勅は、当時のシナにいたごく少数の自由主義的な思想家を驚かせ感激させたけれども、圧倒的な多数派である保守主義者には衝撃を与え、猛烈な敵意を抱かせることになった。