じじぃの「人の死にざま_512_日蓮」

日蓮 - あのひと検索 SPYSEE
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日蓮聖人の生涯 Life of Nichiren Shounin 動画 YouTube
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日蓮正宗 日蓮大聖人の御一生 動画 YouTube
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日蓮 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
日蓮は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗法華宗)の宗祖。死後に皇室から日蓮大菩薩後光厳天皇、1358年)と立正大師大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
【生涯】
貞応元年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房天津小湊町)の小湊で誕生。
1253年(建長5年)4月28日朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(立教開宗)、この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。この頃、名を日蓮と改め、天台宗の尊海より伝法灌頂を受ける。
文応元年7月16日、立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。
1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊豆法難)。
1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長清和源氏甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5ヵ月後にあたる。
1282年(弘安5年)
9月8日、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名
10月8日、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。
10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。享年61(満60歳)。

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内村鑑三「代表的日本人」を読む』 童門冬二/著 PHP文庫 2010年発行
内村鑑三さんの描いた日蓮 (一部抜粋しています)
−−日蓮ほど謎に満ちた人物はいない。敵から見れば、日蓮は冒涜者、偽善者、私利私欲の輩(やから)、山師であった。かれのいかさまぶりを証明しようとさまざまな本が書かれた。非常に手の込んだものもある。かれほど日本で誹謗中傷の的となった人物はいない。しかも日本ではキリスト教徒もこれに加担していた。
−−しかし私はこの人間のために、必要ならば自分の名誉を賭けてもよい。日蓮の教義の多くが今日の批評の試練に耐えられないことは認める。日蓮の論は洗練さに欠け、全体的な論調にも錯乱が見られる。かれはたしかにバランスを欠く性格の持ち主で、一方向に偏る傾向にあった。
−−知性のうえでの誤りや、生まれながらの激しい気性、そして日蓮の生きた時代と環境がおよぼした影響などを取り除いてみよう。そこに見えてくるのは、心の芯まで誠実で、だれよりも正直で勇敢な日本人の姿である。単なる偽善者であれば、25年以上もその偽善を続けることはできない。かれのためなら命を差し出してもよいという何千人もの信奉者を持つこともできない。「不誠実な人間に宗教を興せるだろうか。そんなはずはない。偽りの人間はレンガの家さえ建てられないからだ」とカーライルは主張している。
現在の日蓮宗の浸透状況を見定めた内村鑑三は、
日蓮こそ恐れを知らない人間であり、その勇気の根底には、自分は仏陀がこの世へ遣(つか)わした特別な使者だという確信がある。日蓮自身は、"海辺の貧しき民"でしかない。しかし法華経を伝える媒体としての能力について、日蓮は天地全体と同じほど重要だった」
と熱を込めて日蓮を評価する。
「ルターにとってキリスト教の聖書が尊いのと同様に、法華経日蓮にとって尊いものだった」と繰り返し、「わが経のために死ねるなら、命など惜しくない」と、危機に直面するたびに日蓮が口にしたことばを繰り返しておられる。そして、「日蓮を罵倒(ばとう)している現代のキリスト教徒には、自分の聖書がほこりをかぶっていないかよく見ていただきたいものだ。毎日聖句を口のしていても、その教えを熱心に守っていたとしても、15年のも剣の圧力や流刑に耐えられるだろうか。人びとに受け入れられてもらうために天から遣わされたとしても、そのために人生や魂を捧げられるだろうか。聖書ほど人類の福利に供してきた書物はほかにない。その聖書の持ち主が日蓮に石を投げつけるなど、もっともすべきではないことだ」
と、キリスト教徒に対してもきびしい苦言を呈されている。
結びで、内村さんは日蓮マホメットにたとえる。マホメットも長い間、偽善者の汚名をかぶせられた。しかし歴史がマホメットをその汚名から解放したように、日蓮の正統な評価に向けて、もっと取り組むべきだったと言われる。
たどだどしいダイジェストの仕方だが、内村さんが日蓮に託した自分の姿は余すところなく伝えられている。文中に出てくる、宗教改革者であるマルティン・ルターの中にも、内村さんは自分と日蓮を重ね合わせている。無教会主義の敬虔なクリスチャンだった内村さんは、それなりに社会からの批判を浴びた。まさに「孤立した山の上の一本杉」のように、強い風当たりの中で生きた。
しかし同じ目に遭いながらも、敢然として自分の新面を貫いた日蓮の姿が、どれほど内村さんを励まし、力づけたことか。同時に内村さんは、自らの姿を日蓮の行動の中に見たことだろう。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
日蓮(にちれん) (1222-1282) 60歳で死亡 (一部抜粋しています)
文永11年蒙古襲来の年から日蓮甲州身延山にはいり、以来7年目の弘安4年夏、ふたたび蒙古襲来した年もまだ身延にいたが、このころから身体の不調をおぼえはじめた。
その年の12月に手紙に、春ごろからやせ病が起こり、秋が過ぎ冬になるにつれて日1日と衰弱をまし、この10余日は食事もとまり、身体は石のごとく胸は氷のように冷たい、と訴えている。
下痢が慢性になっていたというから、消化器系統の潰瘍かガンではなかったかと思われる。
翌年の9月、ついに身延山の寒気を避けて、常陸へ湯治にゆくべく、8日下山し、18日武蔵国荏原郡池上にある弟子、池上右衛門の家に泊り、ここでふたたび起つ能わざることを覚悟した。
そして、10月13日午前8時ごろ、枕頭につめかけた弟子たちとともに法華経を読誦(どくじゅ)しながら入寂(にゅうじゃく)した。
「竜(たつ)ノ口法難」をはじめ、いくたびも襲う迫害の嵐の中に南無妙法蓮華経を雄叫(おたけ)びつづけた戦闘的な彼にしては意外に静かな死であった。

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