じじぃの「神話伝説_98_原罪・堕落(旧約聖書)」

#8 原罪とはなんですか?【3分でわかる聖書】 動画 YouTube
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人類は原罪を背負っているのか?

『Mr.都市伝説 関暁夫の都市伝説5 メディアの洗脳から覚めたみなさんへ』 関暁夫/著 竹書房 2014年発行
東方の星 より
キリスト教が広まる以前、古代エジプトやその周辺は、ほとんどが多神教や女神を信仰していました。これは、キリスト教の教義と合わず都合の悪い考えでした。そこで女神は異教徒の証だとし、美しい女神だった姿を、異形の姿、悪魔に置き換えたのです。
たとえば、すべてのものを産み出す母なる大地の神・イナンナ神。いつもフクロウとセットで描かれているこの神も、悪魔とされてしまいました。本来イナンナは金星の女神でもあります。金星は英語でヴィーナス。ローマ神話の金星の女神です。
金星は夕方と明け方のみに見られる星です。夜明け前にひときわ光り輝く明けの明星は、闇の中から”光をもたらす”星なのです。ラテン語で「光をもたらす」(lux 光 + fero 運ぶ)を意味するのは”ルシファー”です。
知識と自由意志の光で新たな夜明けを迎える、知恵の象徴なのです。
エデンの園で人間に知恵の実(禁断の果実)を食べるようにそそのかした蛇としても表現されるルシファー。人間はエデンの園・楽園を追放されたのではなく、知恵を持って自由な意思を獲得し、新たな発展に向かって自らの足で外に出たと捉えることはできないでしょうか。
悪とされたものにどれだけの理由があるのか。伝えられているものを、そのまま信じない方が良いということでしょう。

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キリスト教の本 上 救世主イエスと聖書の謎を解』 増田秀光/編 学習研究社 1996年発行
人類は原罪を背負っているのか? 原罪と自由意志をめぐる永遠の命題 より
キリスト教では「罪」という言葉を、道徳的な罪悪や法律上の犯罪と区別し、宗教的な意味で用いている。これは、人間における原初的、根元的な罪であるということから「原罪(げんざい)」と呼ばれる。
原罪に関する神話は、本来、ユダヤ教の聖書で、のちにキリスト教に取り入れられて『旧約聖書』と呼ばれるようになった書物の最初にあたる「創世記」第3章に記されている。
それによると、神によってつくられた最初の人間であるアダムとイブが、エデンの園にいたとき、イブが蛇にそそのかされて、園の中央にある善悪を知る木の実を食べ、アダムにも与えた。すると、2人は裸であることに気づいて、いちじくの葉を取って前を隠した。性意識や羞恥心の由来である。
善悪を知る木の実を食べることは、神によって禁じられていたから、これを犯したことは神にそむく罪、すなわち原罪とされた。そのため、神は2人をエデンの園から追放し、男には労働、女には出産の苦痛を与えた。そしてアダムとイブは地上に住み、結婚して子どもをつくったため、原罪は、その子孫に受け継がれていくことになった。
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この原罪説を、神学として確立したのはアウグスティヌスである。
アウグスティヌスは『自由意志論』を著して、罪は神が人間に与えた自由意志によって生じるが、この自由意志は、原罪の束縛の下にあって、善への自由、愛への自由を失っている。これを回復させ、意思を自由にするのは神の恩寵であり、恩寵はキリストを信じる者に聖霊によって与えられると説いた。
これは、アウグスティヌスがかつて信仰していたことのあるマニ教の、善と悪の2つの要素が人間と世界を動かしているとする二元論を批判したものである。
これに対し、イギリス生まれの修道士ペラギウス(360年頃〜420年頃)は、原罪を否定する形で自由意志を強調し、410年にカルタゴで、アウグスティヌスに論争を挑んだ。
ペラギウスによれば、アダムの罪は全人類には及ばず、人間は堕落前のアダムと同じ状態で生まれるという。また「マタイによる福音書」第5章の「天地が滅びゆくまでは、律法の1点、1画もすたることなく、ことごとく全うされる」を重視し、律法によっても、福音によっても天国に入ることができると説いた。
その後、5世紀に、アウグスティヌスとペラギウスの中間説ともいうべき、半ペラギウス主義を修道士たちが唱えた。これはむしろ、ペラギウスに近い説であったが、中世に至って、信仰における禁欲的・律法的敬虔さに適合するものとして受け入れられた。
原罪と自由意志については、アウグスティヌスの説が正統とされたが、以後もさまざまな説が唱えられた。
宗教改革のルター(1483〜1546年)は、人間の意志とは、現実には、神の恩寵を受けつけない奴隷意志であると説いた。
また、オランダのカトリック神学者ジャンセン(1585〜1638)は、自由意志を否定して、神の恩寵の絶対性を唱え、死後、異端とされたが、数学者のパスカル(1623〜1662年)は、このジャンセニズムに共鳴した。
キリスト教では、原罪は神からの離反とされている。だが、神が客観的な実体ではなく、人間における究極の問題であるとすれば、原罪は人間の内部における矛盾ということになる。むしろ原罪という問題は、実存主義がいう「不条理」という言葉で表したほうがよいのではないか。
不条理は、不合理とは違って、合理化されることのないもの、何か理由のわかならい、不可解なものである。そして、不条理は、人間の条件の1つであるから、それを無くすのではなく、それを生かしていくということが必要であろう。
たとえば、積極的ニヒリズムという考え方でいえば、虚無や絶望や罪意識を排除するのではなく、それらを新たに肯定し、活用することによって変化させていくという思考こそ重要なのである。