じじぃの「人の死にざま_928_井上・馨」

井上馨 - あのひと検索 SPYSEE
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Meet The MEIJI-ISHIN HEROES 明治維新のヒーローに会いたかった 動画 YouTube
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井上馨の戸惑.mp4 ニコニコ動画
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井上馨 ウィキペディアWikipedia)より
井上馨は、日本の武士・長州藩士、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。桂太郎は娘婿。
幼名は勇吉、通称を聞多(長州藩毛利敬親から拝受)。諱は惟精。
【業績】
維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。長州藩は幕府転覆の最大の功労藩で権限も集中していたから、更に理財の才能のある者達が井上の周囲に集まって来ていたと考えられる。1度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。
外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信青木周蔵陸奥宗光らに至って現れて来ていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
井上馨(いのうえかおる) (1835-1915) 80歳で死亡。(一部抜粋しています)
元治元年、密航留学中のロンドンで馬関戦争の報を聞くや、急遽(きゅうきょ)日本に馳せもどり(といっても当時のことだから3ヵ月近くかかったが)、長藩を説いて大過からしめたが、同年俗論党に襲撃されて瀕死の重傷を負った。時に志道聞多(しじもんた)はまだ29歳であった。
この勇敢無比の志士が、維新後、時に奸物(かんぶつ)の名を冠せられる井上馨となる。彼は明治政府の元勲(げんくん)として国家のために疾走したが、その傍若無人の性格は私欲の方面でもいかんなく発揮されて、尾去沢銅山事件とか藤田組贋札事件とかに悪名を残し、そのためついに一度も首相になることが出来なかった。
しかし、政界裏面にあって元老としての存在は大きく、生命力もまた強靭であった。
明治41年、73のとき彼は腎臓炎から来た尿毒症のためいちじ重態に陥ったが、奇蹟的に回復した。
井上は若いころから毎朝冷水浴をするのを健康法としたが、この大患後はさすがに冷水摩擦にみに改めた。
大正2年1月27日、午前6時過ぎ、彼はこの冷水摩擦をしていて、突然倒れた。家人が駈けつけてみると、左半身が不自由になっていた。しかし彼は、自分で壁を伝わりながら食堂にゆき、朝食をとりはじめた。主治医が来て、食事よりもまず安臥を命じると、彼は大声で、「具合が悪いから食事をしておくのだ」といって、ハムエッグ1皿とオートミール1皿を食い終えた。
爾来、さまざまな療法を試みたが、病状は一進一退であった。それでも彼は茶会を催したり訪客に逢うことをやめず、人が静養を勧めると、「生きていればこそ、いろいろ面白くないことを聞く。おれは早く死にたいのだ。かまうな」と、どなりつけた。これが晩年の口癖となった。
この状態で2年経過し、大正4年にはいり、春には興津の別荘で例年のごとく貴顕300人を招いて大園遊会をひらいたり、夏には海水浴をしたりした。彼は晩年に至るまで、てんぷらやすっぽんなどの濃厚な食事を好んだ。
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翌9月1日、午前10時ごろ、手を食卓につき、「ドッコイセ」といって立とうとしたとき、彼はまた倒れ、そのまま人事不省におちいった。そして11時11分に息をひきとった。

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