じじぃの「人の死にざま_424_横井・小楠」

横井小楠 - あのひと検索 SPYSEE
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横井小楠(熊本歴史・人物)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/rekisi/shounan.html
横井小楠 ウィキペディアWikipedia) より
横井小楠は日本の武士・熊本藩士、儒学者同志社第3代総長で政治家の横井時雄は長男。本姓は平氏維新の十傑の1人。
【生涯】
文化6年(1809年)、肥後熊本(現在の熊本県)に、熊本藩藩士の次男として生まれる。
小楠は私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬井上毅など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。元治元年(1864 年)2月に熊本で龍馬は横井小楠を訪ね、横井小楠はのちの龍馬の船中八策の原案となる『国是七条』を説いた。
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわる。
明治元年(1868年)、新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺される。享年61。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が明治3年に処刑される事となった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
横井小楠(よこいしょうなん) (1809-1869) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
勝海舟が人に語ったことがある。「おれは今迄に天下に恐ろしい人間を2人見た。それは横井小楠西郷南洲だ。横井は西洋の事も別に沢山(たくさん)は知らずおれが教えてやった位だが、その思想の高調子なことは、おれなどはとても梯子(はしご)を賭けても及ばぬと思ったことがしばしばあった。おれはひそかに思った。横井は自分で仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用いる人が世の中にあったら、それこそゆゆしき大事だと」
「世間では横井の論策を錯(あやま)り伝えて、廃帝を議したなどと云ったり、又洋夷と密約して、基督(キリスト)教を公許しようとしているなどと云ったりした」と、鴎外は書く。
文久3年、江戸で熊本藩留守居役をやっているとき、料理屋で酒をのんでいて、小楠、横井平四郎は刺客に襲われた。友人は切り殺されたのに、彼は逃げおおせた。それが卑怯と見られて、彼は禄を奪われた。
6年後、明治2年正月、小楠は新政府の参与として京にいた。しかもこのところ、京都には暗殺などの沙汰はなくなった、と、暮に彼は故郷に報じたくらいであった。ところが彼は狙われていた。
1月5日午後2時、その日の寒さは骨に徹っするばかりで、雲陰鬱にて黄昏(たそがれ)のような京の町を、御所の太政(だじょう)官から出た横井の駕籠(かご)は、丸太町で6人の刺客に襲撃された。
供侍とともに、60歳の小楠までが駕籠から出て、短刀を抜いて刺客たちと渡り合ったのは、やむを得ぬ防衛行為ではあったが、6年前の恥を雪(そそ)ごう、2度とは逃げられないという気持だったのではあるまいか。しかし、数分後彼はついに斬り倒され、首を切断された。
落首にいわく「まっすぐにゆけばええのに平四郎、横井ゆくから首がごろりと」