じじぃの「人の死にざま_1717_矢島・楫子(女子教育者・社会事業家)」

矢島楫子
(kyofukai.jp HPより)

参考にしてください  No.052(先立つ夜- 矢島楫子) 2015年8月15日
1921年アメリカ行きの客船に、まもなく卒寿(90歳)を迎えようとする一人の婦人が乗っていた。それが矢島楫子であった。
そのときすでに彼女は、日本キリスト教婦人矯風会初代会頭、女子学院初代院長をつとめていた。また日本の婦人運動の草分けとして廃娼、禁酒運動に挺身し、外国からも「日本の母」とまで呼ばれ、たたえられていた。
矢島楫子は1925年、92歳で生涯を閉じた。おいであった徳富蘇峰は追悼演説の中で、彼女の波乱の人生を振り返り、「あたかも渋柿が、霜を経て渋味抜け、甘みのみとなるごとく、情趣こまやかに思いやり深く、柔和にして愛に満ちたる人となりました」
と評した。
http://reference-bible.blogspot.jp/2015/08/no052.html
『教科書が教えない歴史』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1996年発行
90歳近くでも渡米した矢島楫子 (一部抜粋しています)
1921年(大正10年)、アメリカ行きの客船に間もなく卒寿(90歳)を迎えようとする一人の婦人が乗っていました。日本キリスト教婦人矯風会初代会頭、女子学院初代院長をつとめ日本緒婦人運動の草分けとして廃娼・禁酒運動に艇身し、外国からも「日本の母」とたたえられた矢島梶子(かじこ)でした。老身を押しての渡米は3度目。1回目の渡米のときには、ルーズベルト大統領と親しく面会し、日露戦争講和の斡旋の労に感謝するなど、平和使節としても役目も果たしました。
万一のことを心配する人々に楫子は「天国は日本からでもアメリカからでも距離は同じでしょう」と意に介する風もなく笑って答えるなど、使命感に燃えての渡航でした。
矢島楫子は1833年天保4年)、熊本市近くの寒村(現・上益城郡益城町)の総庄屋、矢島家の第六女として生まれました。当時の風潮もあり、男子を期待した両親は女児の誕生に失望し、彼女はお七夜を過ぎても命名されず、ふびんに思った姉の順子によってやっと「勝子」と命名されたのでした。このような境遇の中で自然、彼女はむっつりとしてめったに笑顔を見せない勝ち気な少女として育ち、姉たちからも「渋柿」とからかわれるほどでした。ちなみに彼女の姉妹はいずれ劣らぬ賢夫人として有名です。すなわち、三女の順子は熊本の女子教育の基を築き、四女の久子は文豪徳富蘇峰・蘆花兄弟を産み、五女のつせ子は、越前藩主松平春嶽の政治顧問として活躍した幕末の思想家横井小楠に嫁ぎました。
やがて楫子は25歳で小楠門下生と結婚しますが、あいにく酒乱の悪癖があり、酔えば長刀を振り回すような人物でした。身の危険を感じながら悲惨な生活が足かけ10年続き、なかば目が見えなくなったあとついに離婚を決意、世間の冷たい目を浴びながら姉や親せきの家を転々とする生活が続きました。
彼女は失意の底から立ち上がり病身の兄の看護のため小さな蒸気船に乗って上京したのは、人生を半ば過ぎた40歳のときでした。このとき船の小さな楫を見て「私のように目立たぬ女でも楫のように大きな船を動かすことができるかもしれない」と思い、みずから「勝子」を「楫子」に改名したと伝えられています。
上京後、彼女は小学校教員として勤めますが、やがて兄の家の妻子ある書生と恋に落ち子供をもうけてしまいます。しかし、子供を捨てて婚家を出、不義の子を産むという前半生のすさまじい体験が、後に彼女をしてキリスト教に入信させ、廃娼・禁酒を主眼目として婦人運動に当たり、不幸な女性の救済にまい進させた原動力になったことは間違いありません。