じじぃの「人の死にざま_1244_林・則徐」

林則徐 - あのひと検索 SPYSEE
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阿片戦争 動画 YouTube
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第3週1話アヘン戦争と日本の知識人【CGS 倉山満】 動画 YouTube
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『海国図志』 画像
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林則徐 ウィキペディアWikipedia)より
林 則徐(りん そくじょ、Lin Zexu、1785年8月30日 - 1850年11月22日)は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を二回務めている。
字は少穆。諡は文忠。イギリスによる阿片密輸の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは阿片戦争を引き起こした。

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『世界史の叡智 - 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』 本村凌二/著 中央公論新社 2013年発行
林則徐 海外に目を開いた愛国者 (一部抜粋しています)
おそらく現今の宇宙空間のように、往時の地上世界はぼんやりとしていた。
海外事情をつづった『海国図志』60巻が中國船で長崎に運ばれたのは、1853年のペリー来航の2年前だった。これには幕末を彩る大名や志士たちも大いに注目した。松平春嶽島津斉彬吉田松陰佐久間象山横井小楠などが争うように読んだという。幕末期の海防論議はひとかたならぬ影響を受けたらしい。
この『海国図志』の編者が魏源という。彼は友人の流刑囚から欧米諸国をめぐる資料を託されていた。それを利用しながら、魏源は世界地誌を編纂する。その流刑囚こそが林則徐にほかならない。
この男は父の無念をはらすかのように勉学に励み、20代半ばで科挙に合格した。行政の経験を重ねながら、農村再建問題にとりくむ。
あるとき、凶作にみまわれ、民衆は飢餓に苦しんでいた。林則徐はすかさず、大量に穀物を貯蔵していた高官の倉庫を開かせ、食糧を民衆に解放してやった。
また、清の堤防が決壊して広範な地域が大被害を蒙(こうむ)ると、ときの道光帝に任命され、修復に奔走する。毎日のように工事現場を訪れていたという。風雨にさらさればがら泥まみれの道を林則徐が歩く。その姿は現場の労働者にも民衆にも深い感銘を与えたらしい。
やがて、庶民生活の実態にふれるにつれ、密売されるアヘンの害をも痛感する。
アヘン問題は深刻だった。責任ある地域でのアヘン根絶に実績をあげると、林則徐は道光帝に上奏文を送る。内容はきわめて具体的で説得力があり、欽差大臣(特命全権大臣)を拝命した。
アヘン密貿易の中心地である広東に赴く。この密貿易にたずさわるのはイギリス人の交易商人が多かった。林則徐はこれらの商人に圧力をかけ、アヘンを没収し、そのすべてを公衆の面前で焼却処分してしまう。この措置はイギリス人の生命と財産を脅かす不法なものと見なされ、イギリス国内では対中戦争も辞さないという声が高まった。
もちろん、イギリス国内にも反アヘンの世論は少なくなかった。のちに首相になるグラッドストンは「イギリスの国旗がこれほど不正義で不名誉な戦争の舞台に掲げられるならば恐怖におののく」と議会で演説して反対した。だが、派兵は9票差で可決され、1840年、いわゆるアヘン戦争に突入する。
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ところで、選挙区は圧倒的な軍事力を備えたイギリ側が優勢であった。勝てない戦争がつづけば、民衆の反乱さえおこりかねない。やがて清朝政府は敗北を認めて和平交渉に入った。
賠償金や領土の割譲とともに、林則徐は戦争責任を問われて流刑に処された。だが、3年後には罪を許され、官界に復帰する。とはいえ、脆弱な清朝支配への農民蜂起が勢いづき、洪秀全の率いる太平天国の嵐が近づいていた。
林則徐は清廉で有能な官僚として知られ、現代中国でも民族の英雄とたたえられている。

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