じじぃの「科学・芸術_612_東インド会社・アヘン戦争」

Feature History - Opium Wars 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PMgjDUt-2f8
アヘン戦争

阿片戦争 ウィキペディアWikipedia) より
阿片戦争(First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。
イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。

                  • -

『海と帝国-明清時代 (中国の歴史 9)』 上田信/著 講談社 2005年発行
環球のなかの中国――19世紀 より
アヘンは最初、ポルトガル人によってインドからマカオを経由して中国にもたらされた。富裕層のあいだで広がり始めたアヘン吸飲の習慣は、しだいに広東や福建などの沿海地域で社会の各層に波及するようになった。18世紀後半にイギリスが本格的にアヘン取引に関わるようになってから、アヘンの流入量は増大し、アヘンに染まる中国人の数も増えた。
イギリスがアヘン交易に乗り出した1780年からアヘン戦争が勃発する1840年にいたるまでの交易は、これまで三角貿易の形成と展開として叙述されることが多かった。その図式を整理すると次のようになるであろう。
18世紀にイギリスで茶の習慣が定着すると、中国からイギリスへの茶葉貿易が発達する。政府から特許を得て中国との交易を扱っていたのが、インドを拠点とするイギリス東インド会社であった。会社は茶葉を中国で買うために銀を用いていた。一方、インドから中国に向かうアヘン貿易が成長すると、イギリス人は銀に代えてアヘンで決済することを考えた。
18世紀の70年代に、イギリスで産業革命が始まる。綿織物産業から始まったイギリスの産業界は、インドの伝統的な綿織物業をつぶすとともに、インドをイギリス本国への綿花の供給地ならびにイギリス産綿製品の市場へと作り変えた。19世紀の20年代になると、イギリス綿製品がインドに輸出されるようになり、三角貿易の構造が確立する。イギリスから綿製品がインドへ、インドからアヘンが中国へ、そして中国から茶葉がイギリスへと商品が流れることで、交易が順調に進む。
1827年ごろに中国はアヘンの大量輸入の結果、ついに貿易のうえで赤字に転落。1834年にイギリス本国の産業資本家の圧力を受けて、東インド会社の対中国貿易の独占が撤廃されると、アヘンを取り扱う商人も増え、中国へのアヘン流入量が急増した。それにともなって銀の流出量も加速度的に増え、中国国内の銀貨が高騰する。
     ・
清朝皇帝であった愛新覚羅旻寧(宣宗・道光帝)は、総督・巡撫クラスの官僚たちにアヘン政策を意見具申させたのち、道光18年(1838)9月にアヘン厳禁の方針を定めた。意見を出させたときには、すでに皇帝のなかでは方針が定まっていた。意見を具申させた理由は、広東に派遣してアヘン厳禁を実行しうる人物を選定するところにあった。そして選ばれたのが、湖広総督であった林則徐である。
何が皇帝に決断させたのか。銀の流出にともなう経済混乱なども挙げられようが、おそらく最も大きな要因は、帝国の兵士のあいだにアヘンが蔓延し、地方で発生した反乱や政情不安に対処できなくなるという危惧であったと思われる。後述するように、18世紀末から中国では反乱が相次ぎ、清朝は対処に苦慮していた。少数の異民族による中国支配という構造的な弱点を抱えた清朝にとって、反乱が大規模にならない前に鎮圧することが、何よりも優先される政治課題であったからである。
アヘン戦争は、3段階に分けられる。
第1段階。林則徐は1839年に広州に到着すると、アヘン厳禁を断行、外国商人から没収した2万箱以上のアヘンを、海上を航行する商船から望める虎門の海浜で、石灰と混ぜて海水を注ぎ、石灰の発する熱で焼却した。しかし、その後のアヘン交易は途絶えず、清朝とイギリス人のあいだで小競り合いが繰り返された。
     ・
多くの史書は、アヘン戦争を含む19世紀を評して中国の近代化の始まりとし、中国を名づけて「ゆらぐ中華帝国」、あるいは「斜陽の大清帝国」などと呼ぶ。しかし、この世紀をモンゴル帝国以後の歴史のなかに位置づけてみると、また別の評価も可能となる。
中国はその「地大物博」と称えられた豊かな物産、とくに14世紀から17世紀までの生糸と陶磁器、18世紀以降の茶葉などの力によって、大量の銀を吸収し続けてきた。「銀の墓場」とも呼ばれた中国が、アヘンの流入にともなって蓄え続けてきた銀を吐き出した。その銀は主に東南アジアで動き回り、中国に向かっていた物産をヨーロッパに振り向け、東南アジアを植民地化する契機を生み出した。そして、銀は中国から商人ではなく労働者を吸引し、のちにクーリー貿易と呼ばれる人の輸出をもたらす起爆剤となった。19世紀後半になると、中国人は北アメリカなどにも定住するようになる。
国の歴史としてではなく、人の歴史として見たとき、19世紀は中国人がグローバルな環球という舞台において、生活の領域を広げ、社会的・経済的なネットワークを張り巡らせた世紀である。中国人がアヘンの災禍を自力で克服したとき、世界の各地で生きる中国系の人々は、世界の動きを左右することになる。その動きは21世紀になった今も続いている。