じじぃの「人の死にざま_1697_蘇秦(中国戦国時代の弁論家)」

合従連衡(故事成語を学ぶ・第1回) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ybW1WKpGNRg
蘇秦 ウィキペディアWikipedia) より
蘇 秦(そ しん、? - 紀元前317年)は、中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。

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『数学嫌いな人のための数学―数学原論 小室直樹/著 東洋経済新報社 2001年発行
蘇秦張儀韓非子にみる中国の論争技術 (一部抜粋しています)
日本人と違って中国人は、論争、討論、説得を極めて重んずる。学んで雄弁の術を極めれば、歴史上には目も眩(くら)むほどの立身を遂げたという例は枚挙に暇(いとま)がない。遊説の士を引き立てる君主の側でも、有能な人を首相にして有効な政治を行えば、思いもかけなかったほどの富国強兵も可能である。いずれも、論争、討論、説得を鍵に行われる。ゆえに、日本とは違って、論理は極度に発達した。
しかし、後述するようにギリシャのような形式論理学にまでは発達しなかった。発達したのは、揣摩憶測(しまおくそく)の論理、情誼(じょうぎ)をたかめる論理であった。
この発達させた「論理」と形式論理学の違いは、どこからきたのか。
それほどまでに論理好みの中国社会といえども、究極的に発達した形式論理学には馴染まなかったからである。とはいっても、論争好みの中国人がどれほど論理を重んずるか、日本人には遠く想像も及ばない。しかし、その論理たるや、形式論理学とは別物である。
春秋戦国時代(前770〜前221年)の事例を取り上げてみたい。
この時代、中国は、多くの国々に分かれて戦争をしあっていた。各国の君主(王様や諸侯)は、優れた人材を選りすぐって大臣に抜擢して功行を競わせた。人材を得た国は栄え、人材を失った国は亡びる。この点は日本の戦国時代と同じことであった。
人民のほうでも、抜擢してもらって大臣や将軍になって活躍するために、争って他国へ赴いた。この時代は、階級社会であって、幾重もの上下の階級に分かれ、下には貧困を極めた庶民も多くいた。その最下層の庶民にも、戦国時代になると大抜擢されるチャンスも生まれたのであった。
日本でも、戦国時代には、足軽(最下級武士)にも大名になるチャンスがあった。ここまでは中国と同じであったが、日本では、槍一筋に生きて立身することはあっても、弁論で重く用いられるということはなかった。どんなに弁論に優れていても、口先者にすぎないと軽侮(けいぶ)されるのがオチであった。
この点、中国は違った。かの張儀(ちょうぎ)は、鬼谷先生の下で雄弁術を学んだが、はじめ散々に失敗して帰った。彼の家は、「本を読んだり遊説なんかおやめなさい。こんな恥をかくこともないじゃありませんか」と語った。
張儀は妻に向かい、「オレの舌をよく見ろ、まだあるか」と言った。妻は答えて、「まだ、あります」と言った。張儀は、「それで十分だ」と答えた。有名な話である(紀元前91年頃完成したといわれる司馬遷史記』全130巻の中の「張儀列伝第10」)。
「舌さえあれば何とかなる」とは、戦国時代の日本では通用しない命題(文章)であるが、戦国時代の中国では立派に通用した。舌があれば説得できる。権力者を説得すれば立身する(有利な就職をする)可能性が残されている。
この可能性を常に念頭に残しておくところに中国における倫理の特徴がある。
名もなく貧しい者が、揣摩(しま)の術(君主の心を見抜き、思いのままに操作する術)を案出して目も眩(くら)むほどに出世して名声を轟かせた原型としては、この張儀蘇秦(そしん)が有名である。そして、彼らのような人々は、その後も輩出した。
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蘇秦は洛陽の人であり、鬼谷先生に学問を習った。諸国を巡ったが、彼の雄弁に耳を傾ける人もなく、すっかり貧乏して帰郷した。周の顕王に意見を具進(ぐしん)したいと願い出たが、却下された。はるばると秦の国へ出かけて行って、恵王に考えぬいた卓説(たくせつ)を進言したが、秦王にも任用されなかった。蘇秦ほどの雄弁家でも、耳を傾けてくれる人を発見することは困難であったのである。
そこで蘇秦は趙へ行った。趙の首相は奉陽君であったが、奉陽君は蘇秦が気に入らなかった。仕方ないので蘇秦は趙も立ち去り、燕へ行った。燕でもすぐさま君主に会う事はできず、1年後に、やっと燕の文候に目通りして進言できた。
蘇秦は、ここぞと決河(けっか・河が溢れるような)の熱弁を奮った。
蘇秦の分析力、雄弁の見事さは、今日読んでも一驚(いっきょう)を喫して(びっくりさせられて)余りある。司馬遷(太史公)も、大量の紙幅を割いて紹介している。
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燕からスタートした蘇秦は、趙を皮切りにそのほかの四国を次々に合従(がっしょう・対秦同盟)に誘い込んでいった。韓の宣恵王、魏の襄王、斉の宣王、楚の威王と、次々と説得に成功し、ついに六国(燕、趙、韓、魏、斉、楚)の間に合従を成立させ、力を合わせて秦に拮抗することになった。
蘇秦は合従という軍事同盟の従約長(事務総長)となり、同時に六国の宰相を兼ねた。洛陽の貧乏人蘇秦としては目が眩んでも足りないほどの大出世である。この大出世が、六国の君主を討論で説得することによって成し遂げられたのである。