じじぃの「人の死にざま_1669_山本・勘助(戦国時代の武将)」

風林火山 山本勘助 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5BjCEQQ8Rx0
山本勘助 ウィキペディアWikipedia) より
山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。
甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、1892年(明治25年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。
1990年代には国語学者の酒井憲ニが『甲陽軍鑑』の国語学・書誌学的な再検討を行い、これが2000年代には歴史学方面にも波及して、甲陽軍鑑の史料性に関する再評価が提示された。
2007年には井上靖原作のNHK大河ドラマ風林火山』が制作・放映され、前年から山本勘助に関する文献が多く出版された。

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『「誤解」の日本史』 井沢元彦/著 PHP文庫 2012年発行
歴史学界から抹殺された男 (一部抜粋しています)
まだ記憶に新しいところで、平成19年(2007)の「NHK大河ドラマ」の主人公にもなった山本勘助について触れてみたいと思います。
山本勘助というのは、いうまでもなく武田信玄の軍師として知られる人物ですが、実は私は、この勘助こそ近代実証史学の最大の犠牲者だと思っています。どういうことかと言いますと、山本勘助というのは、小説や映画などを通してきわめて知名度は高いにもかかわらず、実は存在をずっと否定されてきました。実在しない架空の人物だと、少なくとも歴史学界ではみなされてきたのです。
山本勘助は、あくまでも小説や映画・ドラマの世界の住人であって、歴史学者がまともに取り上げる対象ではないと、いわば見捨てられていた存在でした。
現在は事情が変っています。『市河文書』という山本勘助の実在を証明した文書が昭和44年(1965)に北海道釧路市で発見されて、山本勘助はほぼ実在したということが歴史学者の間でも共通認識になっています。
ですから、「NHK大河ドラマ」の主人公にも取り上げられたわけです。
『市河文書』とは、正式には「市河藤若宛武田晴信書状」と呼ばれるもので、武田晴信、つまり信玄が市河藤若という家来の忠節を褒め称えたうえ、周囲の軍事事情について伝える内容の手紙です。この時代、書状を使者に持たせて相手に送るときに、その使者に差出人の口上を述べさせるという風習があったのですが、この書状もそうだったようで、文章の末尾に「なお、山本菅助口上あるべく候」と書いてあります。この山本菅助こそ、山本勘助のことだろうということなのです。もちろん、「菅」と「勘」の違いはありますが、前近代では名前の漢字を取り違えたり、混用したりするのは珍しいことではありません。学界でもこの発見以来、いくつかの議論はありましたが、おおむね山本勘助は実在の人物であろう、ということにまとまってきたようです。
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もう1つ、これも『甲陽軍鑑』を読むと分かることなのですが、『甲陽軍鑑』には山本勘助川中島の合戦で討ち死にしたとは書いてあるけれども、討ち死にの様子はまったく書いていません。これも息子が書いたならば絶対にあり得ません。『武功雑記』の言うように、息子が父の事跡をとりつくろって書いたものだとしたら、たとえば、「山本勘助は失敗した」「敵に作戦を見破られた」というふうに書いたとしても、「主君のために自分が最後の最後まで盾となって華々しく、そして忠義の討ち死にをしました」とでも書くべきところでしょう。小説や映画では、勘助の最後を華々しくするために、たいていはそう描かれています。しかし『甲陽軍鑑』には、ただ勘助が死んだと書いてあるだけなのです。
これはどう考えても、息子が書いたものではないと判断できます。要するに、今回のコンセプトにあるように、「あなたは、息子が書いた父親の伝記に悪口が書いてあると思いますか?」ということです。それは人間の、そして社会の常識に照らして、おかしいことだと気づかなければなりません。
しかし、多くの学者は、『甲陽軍鑑』は信用できない、勘助は美化されている。いや、そもそも実在しなかったと決めつけてきたわけです。あえて言いますが、「そんなことも分かりませんか」ということなのです。これは歴史学の手法どうこうという話ではなく、”人間の常識”で判断すれば分かることなのです。