じじぃの「人の死にざま_618_鄭・成功」

鄭成功 - あのひと検索 SPYSEE
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大英雄鄭成功 - 向天再借五百年 動画 YouTube
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鄭氏王朝掲秘(1/6):"官-商-盜"鄭芝龍 控制台海生命線!? 動画 YouTube
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「鄭 成功 ものがたり」
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厦門
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鄭成功 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
鄭成功寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦十六年5月8日(1662年6月23日))は中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。台湾・中国では民族的英雄として描かれる。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
【人物・来歴】
日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松(マツ)の間に生まれた。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建につれてこられる。鄭芝竜の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県の生員になった。明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事。
1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。
ある日鄭森は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「老人」を意味するのではなく、「御大」「旦那」といった親近感を伴う敬称)と呼ばれるようになる。
鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。
鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とする。しかし翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖あるいは「ピルグリム・ファーザーズ」)として社会的に極めて高い地位を占めている。
国性爺合戦
国性爺合戦は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。全五段。
正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から17ヵ月続演の記録を打ち立てた。

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『海のサムライたち』 白石一郎/著 NHK出版 2003年出版
鄭成功 〜 日中混血の海上 (一部抜粋しています)
海外で活躍する人物を、日本は幕府の鎖国令によって史上から消してしまった。
鎖国令は寛永10年(1633)から5回にわたって発布され、およそ6年間をかけて徐々に完成してゆくのだが、その前後の時期に日本はまるで最後の徒花を咲かせるように極めて珍しく面白い人物を生み出した。
鄭成功(ていせいこう)である。のちに中国大陸で勇名を馳せ、台湾の開拓者として実績を残し、いま現在でも中国、台湾の双方で民族英雄として高い評価を得ている人物だ。
この人の生まれは倭寇の本拠地であった日本の長崎県平戸市、母親は田川マツと名乗る日本女性だった。しかし、父親は日本人ではなく明国人である。それも日本甲螺(かしら)として東シナ海から南海の海上権を一手に握る大貿易商の鄭芝龍(ていしりゅう)だった。
鄭芝龍と日本人田川マツの間に生まれた日中混血児が、鄭成功なのである。
江戸時代、近松門左衛門が人形劇のために書いた『国性爺合戦』によって鄭成功の名は劇中の主人公和唐内(わとうない)として日本中に知られ、ために物語か伝説上の人物のように思われがちだが、この人は決して架空の人物ではなく17世紀に実在していた、その経歴や華々しい事蹟も数多い文献で今に語り残されている。
鄭成功寛永元年(1624)、日本の平戸で生まれた。誕生の地は、現在の平戸港から対岸の本土との海峡を眺めながら2キロメートルほど南へ向った白浜の浜辺である。
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17歳のときに日本へきて、しばしば日本と明国を往来した。堺や大阪、駿府などへも足を運んだことがあるらしい。
らしいというのは、鄭芝龍が貿易商人として伸しあがるまでの事蹟は、よくわからないからである。
日本甲螺と呼ばれた海賊王顔思斉(がんしさい)の配下となり、やがて顔思斉とともに日本の平戸に屋敷をかまえ、顔思斉の死後はその跡を襲って4代目の日本甲螺となったという。日本人女性の田川マツを娶って川内浦に移り住んだのも、その前後のことだろうと考えられる。
日本甲螺とは何か。それをちょっと説明しておこう。
東シナ海南シナ海、台湾、琉球、日本にまたがる大きな貿易圏には数多くの明国商人の船団が出没していた。それらの船団による密貿易に組織がしぜんに生れた。
日本甲螺は密貿易を生業とする貿易商人達のいわばリーダーであり。支配者といってもよい地位につく者だった。
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鄭成功は明国名を森(しん)、日本名を田川福松といった。正確には鄭森と呼ぶのが本当だろう。母親の田川マツは他に高子とかあさとかいう説もあり、正確には名がわからない。その父親は田川七左衛門といい平戸松浦家の足軽ていどの身分であったとか、川内浦在住の医師であったとする説もある。中国側では田川氏を翁氏としるし、その名も翁翌皇と中国風に呼んでいる。
平戸では老人のことを「翁(おん)ツァン」と呼ぶ習慣があるので、田川マツの父親はそのように呼ばれていたかもしれない。
鄭成功こと鄭森は口説によれば、平戸港外の下砂の千里ヶ浜で生まれ、母親のマツと祖母の慈愛を受けて日本の国内で成長した。父親の鄭芝龍が日本甲螺となり、さらに変身を遂げて明国官僚に出世する時期が、ちょうど鄭森の生育期と重なるので、おそらく芝龍の平戸滞在は2、3年にすぎず、鄭森の養育は、もっぱら母親の手にゆだねられていたと思われる。
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鄭森(成功)はそのころ南京にいた。すでに21歳の青年となり、妻を迎えて1人の男児をもうけていた。単身で南京にいたのは数々の試験に合格し、南京の国子監太学学生として科挙試験に備えていたからである。中国のエリートの道をまっすぐに歩んでいたといっていい。
そこへ満州族の侵入と北京陥落、南京亡命政権の成立と、信じられぬほど慌しい事変が相次いで怒った。
留学生活どころではない。鄭森は父親の芝龍に命じられて南京を引き揚げ、安平鎮城へ戻った。
亡命政権は南海の大軍閥となった鄭芝龍に、軍隊の派兵と政権参加を求めてくる。南安伯という爵位まで約束した。北京の清国皇帝は、中国全土の攻略をめざして西征軍と南征軍を編成し、南征軍は南京をめざして進撃を開始していた。
向かうところ敵無しの勢いだった。清国軍の行く先々で明国の軍隊は風になびく草のように降伏した。
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南京陥落の直前、鄭森の母で日本女性の田川マツが日本政府に許されて、単身で安平鎮城へやってきた。日本では徳川幕府鎖国制度が完成したあとなので、田川マツは格別に許されて夫と嫡男のもとへ渡海してきたのだ。次男の鄭炎(注.火が3つ)こと次郎左衛門は祖父とともに日本の長崎に居残っていた。
鄭芝龍には田川マツの他に3人の妻があり、隆武帝に招かれて福州へ赴いたときには第2夫人の顔氏を伴っていた。間もなく鄭森も促されて福州へ写るが、そのさい田川マツは同行をすすめても承知しなかった。一夫多妻の明国の慣習に多少は気落ちしていたのだろう。日本から単身で中国へきたときの心の昂(たかぶ)りは萎(な)えていたかもしれない。
招かれて隆武帝の宮殿に参内し、鄭森はじめて皇帝に拝謁したが、初対面のこの日、奇妙なことが起る。
皇帝はひとめ見た鄭森に心酔し、昂奮のあまり、
「うーむ。無念じゃ。朕にもし娘がいれば瞬時も迷うことなく汝に娶らせることであろう」
と口走ったばかりか、
「汝を朕の婿にはできぬが、かわりに朕の姓を汝に与えよう」
といい、皇族の姓の朱の一字を与えてしまう。これは明の太祖朱元璋以来の姓で、中国では国姓(こくせん)と呼ばれていた。
皇帝は鄭森に朱成功という名を授け、内親王の夫としての待遇を賜った上、御営中軍都督という官職につけた。いわば近衛師団長という役職で、もっぱら皇帝の側に侍ることになる。
のちに鄭成功が国姓爺(こくせんや)と呼ばれたのは、このときの皇帝の破格の待遇のせいである。
しかし、この両者の初対面の奇妙さは何だったのだろう。父親の鄭芝龍の実力に、皇帝が配慮したのだという声もあったが、そうではあるまい。
鄭成功は現存している画像や彫刻などを見ても堂々たる美丈夫で、容貌も極めて立派である。
一方の隆武帝は書籍の蒐集を唯一の楽しみにしている読書人で、愛国心に燃える硬骨漢として知られていた。
耽読した老壮学の書物の影響で易占にもこっており、手相、人相、骨相などの学問にもくわしかった。
おそらく隆武帝は自分の直感で、明国を復興する人材はこの若者だと信じたのだろう。
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父を失い、母を死なせた鄭成功のその後の活躍は、この人物の有能さを物語ってあまりある。鄭芝龍が南海に築きあげて地盤は、そっくりそのまま嫡男の成功にスムーズに譲られたわけではなかった。それどころか父親の側近の武将達は去り、叔父や甥などの親族は独立割拠して鄭家を離れた。
成功は以後数年、福建省の廈門に近い小島の鼓浪興(コロンス)を本拠地として父親の旧臣達を心服させ、軍隊を養い、徐々に鄭芝龍の地盤を回復し、父にまさる実力をたくわえてゆく。
そのためには廈門と金門の両島に自立していた従兄の鄭聯を殺害し、その兄の鄭彩を追放、さらには叔父の鄭鴻達とも決裂する。「鉄面非情の人」と自身で公言し、血縁の親疎にこだわらず、有能な物は重用し、無能な人物は容赦なく切り捨てた。
「私は鉄面にして無情である。汝ら諸君臣、鎮将、よろしく各々努力すべし。いやしくも敵に怯(ひる)み、前進しないものがあれば、私は国法を以て厳重に処罰する。いかなる近親者でも私情をもって許すことはないであろう」
廈門と金門の両島を本拠地として沿海の諸方に出撃し、清国に屈した県城や府城を次々と攻略し、大量の掠奪をおこなった。
鉄の規律を誇る軍団が鄭成功の傘下に集まり、10年ばかりで南海の海上王と呼ばれた父親の鄭芝龍をしのぐ大勢力を築きあげた。水陸100鎮の軍団を編成したという。1鎮が2000人の兵団だから、20万の大軍を常備していたことになる。
もちろん、中心は海軍である。数百数千の船舶が傘下に集まっていたことだろう。
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鄭成功という人物は、現代の中国、台湾、日本など関連諸国で、今現在も極めて評価の高い珍しい人である。
日本では母親が日本人であったという親しみから、つねに好意的に扱われてきた。大陸の中国では異民族に抵抗した民族英雄として賞賛され、台湾では植民地支配を脱して自立を遂げた建国の父として遇されている。
私は鄭成功を主人公とした小説『怒濤のごとく』を書き、それが縁となり、招かれて平戸市鄭成功記念祭に出席したが、約300年前の英雄が、今も日中双方で敬慕されていることを眼のあたりにして、感心した。とくに台湾から鄭姓の親睦団体である鄭氏会の人々が数多く参加しており、これは毎年のことだと聞かされて、おどろいた。
なぜ、鄭成功がこのように関連諸国で敬慕されつづけるのか。
おそらく答えは1つであろう。決してたわむことのない信念を堅持し、毀誉褒貶(きよほうへん)にかかわりなく、まっしぐらに目的へ向かって邁進し、前進しながら非命に倒れたこと。
「まっしぐらな人生はつよい」
というのが、鄭成功の決して幸運順調とはいえない生涯を眺めた上での実感である。
鄭芝龍、成功親子の生きて活躍した時代は、ちょうど日本の鎖国前後の時期と重なっている。
鎖国前でなければ鄭芝龍が日本の平戸に在住することはできなかったし、日本人妻を娶って成功という男児を誕生させることもなかったろう。
鄭成功は7歳のときに日本を離れて、中国で成人した。成人後は、もっぱら貿易で日本との交流をつづけている。その実弟の田川次郎左衛門は生涯日本に住んで、鄭家と日本の貿易の橋渡しの役割を果たした。
芝龍にせよ成功にせよ、鎖国制度のなかった頃に日本と縁を結んだ稀有な人材であったといえるであろう。
もし、鄭成功の「日本乞師」に応じて、幕府が大陸へ援軍を送っていたら、鎖国制度はおそらく破綻し、少なくとも、幕末維新まで堅持されることはなかったと思える。

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