じじぃの「歴史・思想_94_朝鮮通信使」

「世界の記憶・朝鮮通信使」(2月10日放送)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CQQbrSzq2TE

国境の島の国際交流 日本と韓国をつなぐ架け橋 対馬

長崎県対馬は、朝鮮半島に近い国境の島。年間30万人の観光客が海を渡って島に訪れます。
対馬朝鮮半島の交流の歴史は、今に始まったことではありません。対馬儒学者雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)は、かつて日本と朝鮮王朝の外交に尽力した人物。日朝関係は、豊臣秀吉朝鮮出兵によって失われ、その後、修復を目指した徳川家康は、朝鮮王朝からの使節団である「朝鮮通信使」を招き、手厚くもてなしました。そのエスコート役を担ったのが、対馬藩。なかでも、通訳だった雨森芳洲の活躍は大きなものでした。対馬では「朝鮮通信使」をパレードで再現し、島最大の祭りとして今に伝えています。
(この動画は、2017年に放送したものです)
https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004990896_00000

朝鮮通信使の地 清見

●平和外交の歴史誇りに
 興津には、戦争と平和を見詰める上で教訓となる歴史がある。江戸時代、清見寺を舞台に日本と朝鮮王朝が友好を交わした朝鮮通信使の記憶である。
https://www.at-s.com/news/sengo70/okitsu_sengo/vol06.html

報道1930

2019年12月13日 BS-TBS
【キャスター】出水麻衣、松原耕二 【コメンテーター】堤伸輔 【ゲスト】新藤義孝(元総務大臣)、仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授)、権容奭(一橋大学大学院准教授)
日韓改善の糸口を探る。善隣外交の秘訣とは? 来週にも発議? 徴用工訴訟“解決案”の行方。朝鮮通信使から学ぶ 「誠信交隣」の理念。どうなる日韓首脳会談。待ち受けるハードルとは?
●関係改善の糸口に? 注目される朝鮮通信使
長い列をなし練り歩く人たち。
1740年代の朝鮮通信使と伝えられている。
日本と朝鮮王朝の間で外交使節が往来していたこの時代、500人ほどの朝鮮通信使がソウルから釜山経由で対馬へ、そして京都などを経て陸路で江戸の町を目指した。
主に室町時代から江戸時代にかけて来日していたという朝鮮通信使
両国の友好を確認する国書を交換したり、日本各地で文化交流を行うなど「信義を通わす使い」として重要な役割を担ってきた。
先月韓国で行われた日韓市民100人による未来対話ではこの朝鮮通信使について話し合う場面があった。
豊臣秀吉朝鮮侵略朝鮮出兵)をした16世紀末、日本と朝鮮王朝は断交状態となり朝鮮通信使の派遣も途絶えた。
戦争が終わり国交正常化を図った徳川家康によって再び「朝鮮通信使」が復活。
それからおよそ200年あまりの間、日本と朝鮮王朝の間で大きな武力衝突はなく平和な時代が続いた。
朝鮮通信使の“誠心”を引き継ごうと今も各地様々な催し(21世紀の朝鮮通信使友情ウォークや静岡市清水区清見寺での茶会)が行われている。
●“国書偽造”で関係改善 その背景は。
江戸時代、朝鮮通信使と貿易文化交流。
秀吉の死後、徳川家康の名を受けて、日本と朝鮮の関係改善に動いたのが対馬藩
対馬藩は、秀吉出兵の前まで、朝鮮とは貿易で経済を維持。
対馬藩は、朝鮮側から講和の条件として、徳川家康からの謝罪の国書を要求される。
しかし、対馬藩は、その条件を受け入れないと判断し、国書を偽造し送付。
朝鮮側は、それを評価し、国王の返書を通信使に持たせて江戸に向かわせた。
対馬藩は、朝鮮国王の返書の一部を“修正”。
権容奭(クォンヨンソク)、「朝鮮通信使の歴史は、日韓だけじゃなくて東アジアの平和にも重要な役割を果たした」
https://www.bs-tbs.co.jp/houdou1930/

朝鮮通信使いま肇まる』

荒山徹/著 文藝春秋 2011年発行

鼠か虎か 再び金誠一の語れる より

友よ。
日本通信使に抜擢されるなど、まったく寝耳に水だった。倭国は海島の蛮国、そこへの使行は命がけだと聞いていた。事実、通信使は世宗大王の御世に三度遣わされたが、四度目となるべき使節団は海上で遭難し、正使の宋処検、副使李従実、書状官李覲らが行方を絶った。その次の通信使は無理が祟ったか正使李享元が発病し、途半ばに死去して、これも取り止めになった。わたしもそのような日に遭ったらと、君の仇が討てなくなることを何より恐れた。
正使李享元の死で使行が中断した後は、通信使が一度も派遣されないまま、百十年という歳月が経過していた。いや、実際に日本に行って帰ってきた第三回の通信使以来と数えれば、百五十年に垂(なんな)んとする。その間、我ら朝鮮は文明国として発展を遂げたが、未開の倭国は力ある諸侯が相乱れる戦国の世となったとやら。まったく野蛮人の本性は隠せぬものだ。要は、我ら文明国の人間が赴くべき土地ではないということであろう。海を挟んで隣り合う両国が、百五十年間、没交渉で事足りてきた、それが何用の証だ。
抑(そもそも)、世宗大王倭国になど通信使を派遣なされたこと自体誤りであった。わたしはそう思う。偉大な大王の犯された唯一の瑕瑾というべきか。成程、農耕や工芸など幾許(いくばく)かの技術は彼の国より齎(もたら)されはした。だが、技術など所詮は賤しいものに過ぎぬ。技術に巧みだということは、つまり野蛮人だという何よりの証明なのだ。倭奴は手足を使い、我ら朝鮮は頭を使う。
就中、通信使の派遣が契機となって諺文(おんもん)などという文字が生まれてしまったことは、取返しのつかない大きな過ちだったと言わざるを得ぬ。偉大なる中華の文字を有しながら自前の文字を持つなど、自らを野蛮人に貶ねる如き所為――愚行であった。もはや彼らは中華に顔向けできなくなった。大王の志に反して誰も諺文を遣おうとせぬのが不幸中の幸いなれども。
ともかく、わたしとしては個人的に倭国に行くを欲しなかったばかりか、朝鮮という国家としても通信使を派遣する要を認めることができなかったのだ。