じじぃの「科学・芸術_890_パラグアイの首都アスンシオン」

農業国 パラグアイの首都:アスンシオンにて...やる事がないので...最初からゴルフ旅行に絞っての訪問なり(アスンシオンパラグアイ

2013/06/01 フォートラベル
パラグアイ
聞けば ああ。。パラグアイね。。と思い出しますが、殆ど良くわからない国と化しています。
行った事のある方に聞いても、
「う~ん。なにもないよぉ....」
「う~ん。田舎だよ...」
「イグアスに行ったついでにでも国境を渡れば十分だよ...」
とか言う返答しか返って来ません....。
https://4travel.jp/travelogue/10781018

『世界まちかど地政学NEXT』

藻谷浩介/著 文藝春秋 2018年発行

南米パラグアイの首都アスンシオンに飛ぶ より

●先住民を尊重し混血を進めて来た独自の歴史
2018年の正月明け、前年3月に23年ぶりの南米旅行でチリとボリビアを訪れ、8月に再度アンデス地方を巡った筆者は、この1月にもまたまた南米へとやってきた。前々回にたどり着けなかったアルゼンチン最南端のウシュアイアをメインに、24年前に訪れたきりのブエノスアイレス(アルゼンチン)、モンテビデオウルグアイ)、サンパウロ(ブラジル)の再訪、それからアスンシオンパラグアイ)の初訪問を狙ったのである。
ウルグアイパラグアイは混同されやすいが、前者はかつては食肉輸出で先進国並みに栄えた歴史もある海沿いの国、後者は内陸の貧困国で、両者の一人当たりGDPには3倍の差がある。
そのウルグアイの首都モンテビデオの空港から、15時過ぎ発のアマゾネス航空に乗って平原地帯を北上すること2時間、アスンシオンの空港に着く。機材はカナダ・ボンバルディア社製の小型ジェットの名機CRJ200で、機内は清潔、快適だった。
アスンシオンの町は、ブエノスアイレスを河口とする大河ラプラタ川の大支流、パラグアイ川に面して広がっている。英語でいえば「アセンション」、日本語でいえば「被昇天」。聖母マリアの被昇天にちなんだ命名だ。スペイン人がこの町を建設したのは1537年、アンデスのかなたでインカ帝国が滅亡したわずか4年後だった。
しかし現在のパラグアイ国民の9割は、先住民グアラニー人の血を引いた混血で、白人系が大多数のアルゼンチン、ウルグアイ、チリとも、黒人系の多いブラジルとも、国内の雰囲気は違う。ボリビアやペルーに近い感じだ。
グアラニー人は農耕民で、周辺の狩猟系先住民と対立していたことから、新参のスペイン人と同盟を結んだ。その後19世紀初頭までのスペイン支配時代のこの地域は、在来文化を尊重する布教方針を持ったイエズス会の主導で、原始共産制コロニーのような様相を呈していたという。
1811年の独立後にも、独裁者フランスア博士が、白人大地主を追放し民族間の混血を強力に進めるという特異な政策を取ったことで、グアラニー人の血統を誇る国民性が確立された。学者出身の独裁者が独自の理論に基づき強権を行使したというのは、第二次大戦前後のポルトガルサラザール教授と似ている。
しかし、明治維新と同時期にイギリスが裏で糸を引いて戦われた三国同盟戦争で、パラグアイはアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイに大敗を喫し、国土の3分の1を失った。50万人以上いた国民が20万人少々になったというのだから、その凄惨さには言葉を失う。
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それでも懲りずにパラグアイは、1930年代に同じく先住民の血を引く国民の多いボリビアとチャコ戦争を行なって領土を得るが、4万人の人命を失った。以降ようやくこの国は、対外戦争から手を引く。欧州が両大戦に突入して行って、その末に域内での戦争をやめたのと似たようなところがある。
しかしその後もこの国は、内戦や、当時南米最長の軍事独裁などを経験し、経済発展の機会を逃がし続けた。1980年代末に民政に移行して以降も、軍部の影響力の強い政治運営が続いているというが、最近は政情不安のニュースを聞かない。いまの実情はどうなのだろうか。
アスンシオンの空港は市街の東北にある。そこから南西に広大な新市街、その西先に碁盤の目状の旧市街が続いている。旧市街中心部の老舗ホテルまで20キロを、タクシーで30分、2400円で着く。降りてみると昔の栄光をとどめたコロニアル調の建物だったが、老朽化は否めない感じだ。ホテル周辺の街路にも由緒ありげな建物が並ぶが、通行人の姿は少なく、ボリビアのラパスや、エクアドルのキトなど、これまで訪れた南米の首都とはまったく違う閑散ぶりである。