じじぃの「科学・芸術_893_レバノンの首都ベイルート」

Lebanon geneticists trace link to Phoenicians - 22 Nov 08

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rvlIrWk9utI

Phoenicia

古代レバノンの歴史

ウィキペディアWikipedia) より
現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前3000年ごろである。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼とした森が茂り、海岸線には、一連の都市群が成立していた。
セム系の民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していた。フェニキアの由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料である。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域の自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易と交渉に従事する場所を海(地中海)に求めた。

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『世界まちかど地政学NEXT』

藻谷浩介/著 文藝春秋 2018年発行

ベイルート 美しい海と街並みの背後に潜む不吉な影 より

つい最近まで日本語のガイドブックが出ていなかった数少ない国・レバノン。だが飛行機も飛んでいるし、首都には渡航自粛勧告も出ていない。ということで首都ベイルートを腰軽く訪ねてみたところ、アラビア語アラビア文字の国にもかかわらず、旧市街の瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいは、北イタリアのようだった。2月末だが燦々(さんさん)と照る地中海の陽光を浴びて、ご機嫌な気分で散策に出かける。
ベイルートの旧市街は、地中海に向けて直角に突き出した台地の上に広がっている。北と西が海という地形は、インド洋に突き出したスリランカコロンボや、後に訪れた南アフリカケープタウンにそっくりだ。
縁もゆかりもないこの3市だが、近代以前から海上交易の拠点として栄えたという点は共通している。古代ギリシャヘロドトスによる、「紀元前7世紀頃に当地を船出したフェニキア人の船が、リビアをまわってエジプトに帰着……」という記述から、ここでの『リビア』とはアフリカ大陸だと想像を膨らませると、この3つの港を見た古代の船乗りも、あるいは存在したかもしれない。
町の東には標高2500メートルを超えるレバノン山脈が延び、地中海からの西風がぶつかって上昇気流となることから、一定の降水がある。2月末の今日は、上から4分の1ほどが雪に覆われていた。国名の元となったフェニキア語の「レバン」は「白い」という意味だという。確かに乾燥した地中海沿岸で、この景観は古代から人の注意を引くものだっただろう。当市からその山並みを越えて反対側に下りていくと、80キロもいかない先から乾燥したシリアになる。
当地の先住民だったフェニキア人が、航海の民として記録に登場するのは紀元前15世紀、北隣のアナトリア半島(現トルコ)にヒッタイト帝国が勃興したのと同時期である。香水の恵みを受けて育つレバノン杉(国旗にもデザインされている)を、ヒッタイト人が実用化した鉄器で、伐採・製材できるようになったことが背景にあっただろう。鉄器といえば、武器や農機具の革新をもたらしたことが強調されがちだが、それらは青銅器でも作れないものではなかった。木を切って木材にすることこそ、鉄器が登場して初めて大々的に可能になったのである。つまり仮小屋ではない木造建築や、筏(いかだ)やカヌーではない船は、鉄の実用化の産物なのだ。
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ホテルのすぐ近くに、ベイルート市街のビジュアルな案内板があった。まるで日本のように、楽しそうな絵地図が書かれており、観光に力を入れる姿勢がわかる。それで位置を確かめ、北面の海岸に向けて坂道を下りる。
途中にはベイルートアメリカン大学のキャンパスがあった。日本で明治維新が起きた頃に、米国から来たプロテスタント宣教師が開いたものだが、いまは宗教色のない総合大学だ。門を出入りする多くの女子学生の中でも、キリスト教徒は普通に髪を見せている。ちなみに米国政府は現在、自国民にレバノンへの渡航自粛を勧告しているという。実際にはこんなに平和な様子なのだが。
海岸沿いのパリ通りまで降りると、レバノン山脈の雪を彼方に望む広い歩道で、ジョギングや散歩を楽しむ市民の姿があった。海の水はもともと青く澄んでいたものが、都市排水でやや汚れ始めているという印象だが、それでも十分に泳げそうだ。筆者もここから西回りに、海沿いを歩いていくことにする。キリスト教徒とムスリム諸派の混住地だけに、女性の服装を見ていると、西欧と同じ露出度の人から、頭からカラフルな布を巻いた人、黒ずくめの人まで、実にさまざまだ。