じじぃの「人の死にざま_795_倉富・勇」

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倉富勇三郎のみた宮中 枢密院議長の日記 講談社現代新書 1911 関心空間
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倉富勇三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
倉富勇三郎(くらとみゆうざぶろう、嘉永6年7月16日(1853年8月20日) - 昭和23年(1948年)1月26日)は、明治から昭和にかけての司法・宮内官僚。法学博士。男爵。
内閣法制局長官貴族院勅選議員、枢密院議長。法典調査会刑法起草委員。作家広津柳浪は夫人の兄に当たる。
【 来歴・人物】
筑後国竹野郡(現在の福岡県久留米市(旧田主丸町))の儒学者・倉富胤厚の3男。
明治43年(1910年)の日韓併合によって朝鮮総督府司法部長官に転じ、朝鮮植民地法制の基礎を築いた。その功労によって大正3年(1914年)の第1次山本内閣では、内閣法制局長官貴族院議員に就任した。同内閣の総辞職後は宮内省に移り、大正9年1920年)に枢密顧問官になると、大正14年(1925年)に枢密院副議長、翌大正15年(1926年)に枢密院議長に就任するなどして男爵を授けられた。副議長の平沼騏一郎とともに政党政治に懐疑的な人物であり、政党内閣としばしば対立して金融恐慌の際には第1次若槻内閣の倒閣に大きな役割を果たした。
昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約の批准問題では、条約反対を唱えて浜口内閣倒閣を図るが、元老西園寺公望内大臣牧野伸顕、更に昭和天皇までが内閣擁護の姿勢を見せたためにその圧力に屈した。その後も政党内閣や国際協調には否定的で、満州事変や五・一五事件などの軍部の暴走に対しても軍部に同情的な姿勢を見せた。だが、昭和天皇の信任が揺らいだ事で自信を失い、昭和9年(1934年)に眼病を理由に、平沼を後継に推して議長を辞任した。だが、西園寺は倉富・平沼が軍部に心理的なバックアップを与えているとして反感を抱いており、後任に一木喜徳郎を推挙して任命にこぎつけた。これに憤慨した倉富は前官待遇を受けたにも拘らず、故郷に引き籠もって隠居生活に入る。だが、太平洋戦争敗戦後は病気勝ちとなり、それが理由で戦争犯罪容疑の追及は免れたものの、失意のうちに96歳で病死した。
国立国会図書館「憲政資料室」に、詳細で膨大な『倉富勇三郎日記』が所蔵されている。

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『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
世界一長い日記の執筆者・倉富勇三郎 (一部抜粋しています)
今回は世界一長い日記を残した男を紹介したい。皇族・華族に関する事務全般を担当する宮内省の宗秩寮(そうちつりょう)総裁などを歴任後、大正15(1926)年に枢密院議長となった倉富勇三郎である。
枢密院は大日本帝国憲法下で天皇の最高諮問機関と市づけられた組織である。そのトップの枢密院議長には、伊藤博文山県有朋西園寺公望近衛文麿鈴木貫太郎など、超のつく大物が歴代就任してきた。知名度において倉富勇三郎はそのなかで最も無名な男、すなわち「忘れられた日本人」だったといってよい。
しかし、倉富はそれとは別の意味で、近代史や天皇制を専攻する学者の間で注目されていた。国会図書館の憲政資料室に、日本の近現代史を彩った軍人、政治家、官僚ら約400人の人物に関するファイルが並べられている。そのなかの1冊に「倉富勇三郎関係文書」がある。
ファイルされている資料の大半は、倉富が書き残した日記である。日記は小型の手帳、大学ノート、便箋、半紙など297冊を数え、執筆期間は大正8年1月1日から昭和19(1944)年12月31日まで、26年におよぶ。平均すると、ちょうどひと月にノート1冊分のペースで書き綴った計算になる。
1日あたりの執筆量は、多いときは400字詰め原稿用紙にして50枚を超えることもある。まずは世界最大最長の日記といってよいだろう。
近代史や天皇制の研究者が倉富に注目してきたのは、この浩瀚(こうかん)な日記のせいである。倉富が宗秩寮総裁という宮内省の要職についていた時代は、病弱な大正天皇にかわって裕仁親王(後の昭和天皇)が執務を代行する摂政制の導入や、その裕仁親王の妃に内定していた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)の家系に色盲の遺伝子があるとして政界を巻き込んで大騒動となった”宮中某重大事件”が起きるなど宮中が未曾有の激震に見舞われた時代である。
倉富日記にこれらに関する記述はないか。研究者たちはそこに重大な関心を寄せていた。しかし、倉富日記があまりにも長すぎるため、これまでそれを通読できた者はひとりもいなかった。
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さて倉富日記だが、その記述は重複がきわめて多いせいもあって、死ぬほど退屈である。ただし油断できないのは、おそろしく冗長な記述のなかに、これまでの歴史観を覆すような貴重な証言が、時折不意をついて出現することである。
その都度ハッとさせられるが、困ったことに、日記はまたすぐに元の退屈な世界に戻っていく。例えていうなら、倉富日記を読む作業は、渺茫(びょうぼう)たる砂漠のなかから、一粒の砂金を見つける作業に似ている。
倉富は感情をほとんど表に出さず、常に冷静な記録者の立ち位置を崩さない。倉富日記は考えていることをまったく記さず、自分が言ったこと、相手から聞いたことのみ記す。倉富日記は究極のノンフィクションである。
だが倉富の記録精神は、やはりこの日記を全体としては砂を噛んだようなものにさせている。こうした味気ない記述を干天の慈雨のように救っているのは、皇族と華族に関する噂話やゴシップの数々である。
倉富は前述の輝かしい経歴や、己の感情をほとんど記さない記録態度からみて、謹厳実直を絵にしたような禁欲的で怜悧(れいり)な官僚タイプだと思われがちである。しかし、人の噂話をこよなく愛してすべて聞き取り、それをあまさず書かずにはいられなかった日記からもうかがえるように、その素顔はすこぶる人間的である。
倉富は健康管理のため、冷水摩擦と朝鮮人参の服用を欠かさず、また無類の愛妻家でもあった。倉富日記を読むと、西洋音楽や活動写真、輸入される自動車などの新風俗にも人並み以上の関心をもっていたことがわかる。これらの私事と世情にわたる記述が、飄々(ひょうひょう)としながら外俗物でもあった倉富の得難い人柄を伝えている。
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字は細かくきわめて難読である。書いた倉富本人にも正確に読み返せたとは思えないが、それでも1日平均500字以上きっちりと書き綴っている。
昭和19年の大晦日の夜、倉富は身辺雑記を記したあと、ノートに最後の1行を書きつけた。
「午後5時30分頃、硬便中量」
これが、世界一長い日記を残した倉富勇三郎の絶筆だった。