じじぃの「人の死にざま_694_東久邇」

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歴代内閣総理大臣列伝 動画 YouTube
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東久邇宮稔彦王 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
東久邇宮稔彦王(1887年(明治20年)12月3日-1990年(平成2年)1月20日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇稔彦を名乗った。
貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。
【来歴】
1887年(明治20年)、久邇宮朝彦親王の九男として誕生。
その後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将であった。日米開戦直前の1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がる。皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、近衛文麿広田弘毅東条英機をはじめ、海軍が支持したが皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。大戦直後には悪化する日米関係、日英関係を好転するため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索したが開戦に至る。
留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)等の教育機関の創設に携わった。特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。
1945年(昭和20年)8月17日に首相となり東久邇宮内閣を組閣。現役の陸軍大将として陸軍大臣を兼務し、9月2日のポツダム宣言(降伏文書)の調印を迎えた。
ポツダム宣言の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。
これに対して、10月4日GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職した。
1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。
1960年(昭和35年)、60年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山片山哲とともに三元首相の連名で時の首相・岸信介に退陣を勧告。
1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。
次回の知ってるつもり?!
2000/7/2 放送 「総理大臣物語・東久邇稔彦
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000702.html
文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
一億総懺悔  東久邇稔彦(ひがしくになるひこ) (一部抜粋しています)
いわゆる「聖断」をもって日本を終戦に導いた鈴木貫太郎内閣が昭和20年8月15日に総次辞職した後、陸軍大将で皇族の東久邇稔彦王が首相に選ばれた。東久邇首相は、外地へ皇族を派遣して、軍の武装解除を進めたり、連合軍の進駐も受入れ、9月2日には降伏文書の調印も済ませたが、占領軍との軋轢もあって2ヵ月もしないうちに内閣は総辞職した。
「一億総懺悔」発言は、マッカーサーの厚木到着を前に記者団との会見で初めて口にされ、その後、9月5日の貴族院・衆議員における施政方針演説の中で以下のように改めて語られた。
稔彦王は昭和22年に皇族の身分を離れ、のちに新興宗教の教祖にまつり上げられたこともあった。
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 敗戦のよつて来る所は、もとより一にして止らず、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日われわれが徒に過去に遡つて、誰を責め、何を咎むることもないのであるが、前線も銃後も、軍も官も民も、国民尽く、静に反省する所がなければならない。我々は今こそ総懺悔し、神前に、一切の邪心を洗ひ浄め、過去をもつて将来の誡めとなし、心を新たにして、戦の日にも増して、挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携へて、各々その本分に最善を尽し、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進退を開くべきである。征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、酷寒を凌ぎ、炎熱を冒し、つぶさに辛酸をなめて、勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて、その職務に尽瘁し、銃後国民は協心尽力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は、その総力を戦争目的の完遂に傾けて参つた。もとよりその方法に於て過を犯し、適切を欠いたものも尠しとせず、その努力において、悉く適当であつたと謂ひ得ざりし面もあつた。然しながら、あらゆる困苦欠乏に耐へて参つた一億国民の敢闘の意力、この尽忠の精神力こそは、敗れたりとはいへ、永く記憶せらるべき民族の底力である。

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