じじぃの「人の死にざま_529_田中・角栄」

田中角栄 - あのひと検索 SPYSEE
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36 - 田中角栄 金脈問題 (ロッキード事件) - 1974 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zoPPBeRtKhA
プライムニュース 「田中角栄(元首相)の“光と影”」 2015年5月8日 BSフジ
【キャスター】松村未央、反町理 【ゲスト】石破茂(地方創生担当相 自由民主党衆議院議員)、鳩山邦夫(元法相 自由民主党衆議院議員)、後藤謙次(政治ジャーナリスト)
日本列島改造論」「日中国交正常化」「日米繊維交渉」など、戦後経済成長の枢軸をになう政策を打ち出した田中角栄元首相。金脈問題で首相を辞任した後は、“闇将軍”として、日本の政治に大きな影響力を与えた。
功と罪、光と影。常に複層的に語られる「田中角栄論」。我々は“角栄的なもの”から何を学び、何を反面教師とすべきなのか。
「昭和」で思い浮かぶ人物
1位 昭和天皇    31%
2位 田中角栄    21%
3位 美空ひばり    6%
4位 吉田茂      5%
5位 東條英機     2%
提言 「田中角栄から何を学ぶべきか」
石破 「魔神に学ぶもの無し」
 田中角栄は人ではなく魔神。接することが出来ただけで幸せだった。派閥は永遠ではないと言われた。それが本音だったのかもしれない。
鳩山 「先を見る力」
 私のいいところだけを見てはだめだ。君は無理しちゃだめだ。自然体でいけ。
後藤 「明朗闊達」
 今の政治に一番必要なもの。田中角栄の明朗闊達さに人が集まった。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150508_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150508_1
田中角栄 ウィキペディアWikipedia)より
田中角榮(1918年(大正7年)5月4日-1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。
【概略】
高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。自民党最大派閥であった田中派木曜クラブ)を率いつつ、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家でありながら官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。大正生まれとして初の内閣総理大臣である。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政局に対する影響力を保ち続け、マスコミは「(目白の)闇将軍」の異名を名付けた。
道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。
【人間関係】
・正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。
・東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
・2,575坪の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
中華人民共和国からは「日中国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、訒小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問した。
【経歴】
・1918年(大正7年) - 新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる
・1934年(昭和9年) - 上京。住み込みで井上工業に働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。途中海軍兵学校への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。
・1941年(昭和16年) - 東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
・1947年(昭和22年) - 第23回総選挙。新潟3区から民主党公認で出馬し、当選。
・1972年(昭和47年)
 ・5月 - 佐藤派から田中派が分離独立。
 ・6月 - 「日本列島改造論」を発表。
 ・7月 - 第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘
 ・9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東国家主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。同日、中華民国が対日国交断絶を発表。
 ・12月 - 第33回総選挙。自由民主党過半数確保も議席減、日本共産党が躍進。12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。
・1974年(昭和49年)
 ・10月 - 月刊誌『文藝春秋』で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。立花隆らが金脈問題を追及する。
 ・11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や、国会での追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。
 ・12月 - 内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足。首相在職通算日数は886日。
・1992年(平成4年)
 ・8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
 ・12月 - 経世会が分裂。
・1993年(平成5年)
 ・7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
 ・12月16日 - 75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には大勲位菊花大綬章が叙勲される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため勲章は与えられなかった。

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文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和49年 一夜、沛然として  田中角栄 (一部抜粋しています)
以下の声明は、昭和49年11月26日、官邸で竹下官房長官が、決算委員会で梶山静六官房副長官が代読したものである。
 私は、フォード大統領の来日というわが国にとって、まさに歴史的な行事がつつがなく終了し、日米友好の基礎が一段と固まったこの機会に、内閣総理大臣および自由民主党総裁を辞任する決意をいたしました。
 政権を担当して以来、2年4ヵ月余、私は決断と実行を肝に銘じ、日本の平和と安全、国民生活の安定と向上のため全力投球を続けてまいりました。
 しかるところ、最近における政局の混迷が、少なからず私個人にかかわる問題に端を発していることについて、私は国政の最高責任者とそて、政治的、道義的責任を痛感しております。
 1人の人間として考えるとき、私は裸一貫で郷里を発って以来、1日も休むことなく、ただ真面目に働き続けてまいりました。顧りみまして、いささかの感慨もあります。しかし、私個人の問題で、かりそめにも世間の誤解を招いたことは、公人として、不明、不徳のいたすところであり、耐えがたい痛苦を覚えるのであります。私は、いずれ真実を明らかにして、国民の理解を得てまいりたいと考えております。
 いま、国の内外には、緊急に解決すべき課題が山積しております。政治には瞬時の停滞も許されません。私が、厳粛にかつ淡々としてみずからの進退を明らかにした所以はここにあります。
 わが国の前途に想いをめぐらすとき、私は一夜、沛然(はいぜん)として大地を打つ豪雨に心耳を澄ます思いであります。
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☆昭和21年、戦後初めての衆議院選に角栄さんが出たとき、私の村でこんな演説をしたのを聞きました。
「われわれ新潟県人は、夕陽が西の海に沈むところは見ても、朝日が東の海から出るのを見たことはない。私はあなたがたに約束する。太陽が東の海からのぼるのを、必ずあなたがたに見せてあげる、と」
新潟から東京までまっ平らにして、2時間で行けるようにする、というのです。その時は落選しましたが、司馬さんのいう「土建国家」の思想はすでに芽生えていたわけです。(半蔵)

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