じじぃの「人の死にざま_588_石橋・湛」

石橋湛山 - あのひと検索 SPYSEE
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昭和宰相列伝5 鳩山一郎石橋湛山(1954-1957) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gV37CSevy6Q
石橋湛山記念財団Homepage
http://www.ishibashi-mf.org/
日本人は何を考えてきたのか 「第6回 大正デモクラシーと中国・朝鮮 〜吉野作造石橋湛山〜 (追加) 2012年7月8日 NHK Eテレ
【司会】三宅民夫 【出演】姜尚中東京大学大学院情報学環教授)、松尾尊禱(京都大学名誉教授)、増田弘(東洋英和女学院大学教授)
大正デモクラシーの理論的指導者で「民本主義」を唱えた吉野作造。当初、日本の植民地支配を認めていたが、朝鮮人留学生との交流や植民地・朝鮮の実態に触れるなかで、疑問を抱くようになる。そして旧満州中国東北部への進出についても批判的となり、中国の民族主義に理解を示した。
一方、「東洋経済新報」の記者(のちに社長)・石橋湛山は「小日本主義」を唱え、植民地・朝鮮や満蒙を放棄するという当時としては画期的な提言を行った。
戦後、首相となった石橋は、退陣後、日中の国交正常化に尽力する。晩年の1959年、1963年に訪中し周恩来と会談。「日中米ソ平和同盟構想」を唱え、世界平和と日中の共存に力を注いだ。
番組では、政治学者の姜尚中さんが、韓国をはじめゆかりの地をたずねる。吉野作造石橋湛山の中国・朝鮮との関わりを追い、アジアの中で日本の進む道を考える。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0708.html
石橋湛山 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
石橋湛山は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。
大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第12・13・14代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。
【生涯】
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三として生まれる。
中学生時代、かつて札幌農学校(現・北海道大学の前身)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けた校長・大島正健との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。
1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している。 翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校に通っている。
だが同年7月の試験は、不合格であった。翌年に再度受験するが、またもや失敗し、早稲田大学高等予科編入試験を受けて合格して9月に入学する。
日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリスト清沢洌等)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいておりかつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていた為に、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年(昭和21年)に日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣する。
大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。
1956年(昭和31年)12月に内閣総理大臣に指名された。
石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。
1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。
1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。
【傾斜生産方式】
傾斜生産方式とは、第二次世界大戦後、GHQによる占領行政下にあった日本における経済復興のために実行された経済政策である。当時の基幹産業である鉄鋼、石炭に資材・資金を超重点的に投入し、両部門相互の循環的拡大を促し、それを契機に産業全体の拡大を図るというものであった。工業復興のための基礎的素材である石炭と鉄鋼の増産に向かって、全ての経済政策を集中的に「傾斜」するという意味から名付けられたという。
同時期に行われていた価格統制等とともに統制経済の一環とも位置づけられる。
炭鉱においては、閣議決定に基づいて主食、衣類、酒、たばこなどが特別配給され、社宅(炭住)の整備など会社による福利厚生もあわせれば、坑内労働の過酷さがあっても、住み心地の良さを求めて各地から志願者が詰めかけたという。
片山内閣、芦田内閣でも本政策は引き継がれた。特に、「(吉田内閣よりも)むしろ日本社会党政権(片山内閣)に親和性が高かったというべきだろう」という見方もある。石炭の増産はほぼ目標どおりに進み、これらの効果による鉱工業生産の増加に伴い、日本経済は復興に向かったが、上記復興金融金庫による過剰な資金投入に伴う通貨供給量の増大などの要因からインフレーションが加速し、「復金インフレ」とも呼ばれた。
上記吉田内閣の閣議決定時の大蔵大臣である石橋湛山は、「インフレ」に対して、『私の履歴書』(日本経済新聞1958年掲載)において、「(インフレ)の危険をおかさなければ、(中略、石炭の確保もできずに)汽車もあるいは止まったかも知れない。したがって暴動が起き、思わぬ不幸を敗戦の上にうわぬりしたかもしれなかったのである」と反論している。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
石橋湛山(いしばしたんざん) (1884-1973) 89歳で死亡。 (一部抜粋しています)
戦時中は軍部に抵抗し、戦後はGHQに抵抗した剛直の自由人石橋湛山は、昭和31年ついに総理大臣となったが、わずか1ヵ月後の32年1月25日、朝ヒゲを剃っていて、突如めまいと右腕麻痺、言語障害を起し、左側脳血栓と診断され、在任2ヵ月、みずから辞表を出して引退した。ときに彼は73歳であった。
しかし彼は、その後意外にも大長命し、戦後最初の日中国交の橋渡しの役割を果たしたが、昭和42年ごろから持病の慢性気管支炎(彼はヘビースモーカーであった)が昂じてしばしば肺炎を起こすようになり、昭和45年2月から長期にわたり、聖路加病院に入院した。
そのうち下肢の筋肉が萎縮して、寝たきり老人となり、47年夏から落ちあいの自邸に帰ったが、老衰は次第にすすみ、48年4月25日、しずかに息をひきとった。

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