じじぃの「人の死にざま_1430_月形・洗蔵」

月形半平太

月形洗蔵幽閉の地

月形洗蔵とは幕末の武士であり、筑前勤王党の主要人物の一人である
月形洗蔵といえば幕末の福岡藩藩士薩長同盟の起草文を考案した人。
http://blog.goo.ne.jp/cloud-cti/e/6134dd32b77a0114481437f34dc08286
月形洗蔵 ウィキペディアWikipedia)より
月形 洗蔵(つきがた せんぞう、文政11年5月5日(1828年6月16日) - 慶応元年10月23日(1865年12月10日))は、江戸時代末期(幕末)の福岡藩藩士薩長同盟の起草文を考案し、早川勇(早川養敬)とともに斡旋に尽力した。
月形半平太 - 戯曲の主人公。月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたといわれる。

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『学校では教えてくれない日本史の授業』 井沢元彦/著 PHP文庫 2013年発行もう少しで「薩長土肥筑」になっていた! (一部抜粋しています)
共に倒幕を目指しながらも、「八月十八日の政変」や「禁門の変蛤御門の変)」で互いに武力衝突していたことで、手を結ぶのは不可能だと言われていた薩摩と長州の間を取り持ったのは誰か。
皆さん、土佐の「坂本龍馬」だと思っていますよね。
でも実は、薩長の間を取り持ったのは、坂本龍馬が最初ではないのです。彼よりも前に薩長の間を取り持ち薩長同盟の起草文を考案した人物がいたのです。
その人の名は月形洗蔵、福岡藩藩士です。
坂本龍馬があまりにも有名になってしまったので、この人の名はすっかり忘れ去られてしまっていますが、実は坂本龍馬はこの人物を訪ねており、彼の志を継いで薩長同盟を成し遂げたと考えられます。
ところで、皆さんは昔、新国劇の作品として人気を博した『月形半平太』という作品をご存じでしょうか。これは行友李風(ゆきともりふう)という人物が書いた戯曲です。「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れてまいろう」という台詞で有名と言えば、思い当たる方も多いのではないでしょうか。
この作品の主人公、月形半平太は架空の人物ですが、「半平太」という名前から、土佐勤王党を率いた武市瑞山(たけちずいざん)がモデルとされていますが、「月形」というのはかなり珍しい苗字なので、私は武市だけではなく、月形洗蔵のことが作者の行友李風の脳裏にあったのだと思っています。
月形洗蔵と武市半平太の最大の違いは、武市半平太があくまでも土佐1国主義なのに対し、月形は福岡藩に留まらない広い視野を持っていたということです。
これは福岡藩が置かれた地理的な事情もあったのかもしれません。地図を見るとわかりますが、福岡藩というのは、ちょうど薩長の間に位置しているのです。
しかし、単に間にあったからというだけでは到底できないことを、月形は成し遂げています。
それは八・一八の政変が起こった時に長州の味方であった公家の身柄をどうするか、という問題が起きた時のことです。彼らは「七卿(しちきょう)」と呼ばれ、後に明治維新の際に復権するのですが、この時点では長州とともに都を追放された身の上です。
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何しろこの公家たちは「火種」のようなものです。それを過激な長州にそのまま置いておくのはどう考えてもマズイ、ではどうするか。薩摩藩が引き取るという案もあったのですが、それだと長州と公家の関係が完全に切れてしまうので、後々のことを考えるとそれも得策ではない。
どこかいい預かり場所はないかというときに浮上したのが、両藩の間に位置し、双方と良好な関係を保っている福岡藩に預かってもらうという案だったのです。
そして、両藩の間を行き来し、この案を実現させたのが月形洗蔵だったのです。つまり、この人が最初に七卿の問題を通して薩摩と長州を結びつける役割をして、薩長同盟をフォローしたのです。
このまま行けば、恐らく明治維新の雄藩は「薩長土肥」にこの福岡藩の「筑前」が加わり、「薩長土肥筑」になっていたことでしょう。
そうならなかったのは、福岡藩が途中で佐幕派に転じてしまったからでした。この転換により月形は勤王派として罪を問われ、首を切られてしまったのです。