じじぃの「神話伝説_02_孝明天皇」

竹田恒泰】殺された孝明天皇の御心【佐幕攘夷】 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=D9oXQ8Vvycs
孝明天皇 ウィキペディアWikipedia)より
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月11日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日)は、江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日)。幼称は煕宮(ひろのみや)。諱は統仁(おさひと)。明治天皇の父に当たる。一世一元の制制定前の最後の天皇である。
【略歴】
第2次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通西郷隆盛に対する書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行うことで朝廷の求心力を回復せよと記している。 こうした中で慶応2年(1866年)8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている。
慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして崩御。宝算36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、他殺説も存在し議論となっている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
孝明天皇 (1831 - 1867) 35歳で死亡
慶應2年12月11日、数日前からの風邪と思われた炎状をおして、内侍所臨時神楽(かぐら)に出席したが、翌日から高熱を発し、痘症と診断された。16日から発疹、以後、丘疹
、水泡、膿泡と、天然痘の順当な経過をたどり、20日過ぎには回復に向うと見られたのに、24日に至り、容態悪化、25日夜11時崩御した。皇太子睦仁(むつひろ)親王明治天皇)はまだ14歳であった。
この天皇の死は、岩倉具視の毒殺による執拗な説が当時から現代にいたるまで続いている。
孝明天皇天皇でありながら討幕を好まず、そのために王政復古を志す岩倉に毒を盛られたというのである。天皇が疱瘡(ほうそう)にかかったことは事実だが、それを利用して一服盛られたというのである。