じじぃの「人の死にざま_876_JR・ブラック」

ジャパン・ヘラルド社 横浜開港資料館
ジャパン・ヘラルド社は、1861年文久元年、横浜で最初の週刊新聞「ジャパン・ヘラルド」を、63年には日本で最初の日刊新聞「デイリー・ジャパン・ヘラルド」を発行しました。会社は、何度か移転しましたが、この絵図が発行された当時は居留地60番でした。そのほか、「ジャパン・ウィークリー・メイル」や、日刊夕刊紙「ジャパン・ガゼット」などの外国語新聞が横浜で発行されています。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/kids/bunmeikaika/b4.html
ブラック とは コトバンク
生年: 1827.1.8
没年: 明治13.6.11 (1880)
明治時代の新聞発行者。スコットランド生まれ。文久3(1863)年来日。横浜でハンサードの英字紙《The Japan Herald》の共同編集人となる。慶応3(1867)年,日刊英字紙《The Japan Gazette》を発行。明治5(1872)年,邦字紙『日新真事誌』を創刊。7年板垣退助らの「民撰議院設立建白書」を掲載したが,外国人のため筆禍を免れた。8年,政府の策略によって,左院御雇いとなって『日新真事誌』から離れた直後に同紙は廃刊された。その憤懣から9年『万国新聞』を無届けで創刊するが,それも短命に終わった。その後,上海に渡り,英字紙《The Shanghai Mercury》を創刊する。12年に再来日し,著書『ヤング・ジャパン』を執筆した。長男のヘンリーは落語家快楽亭ブラックとして活躍した。<参考文献>『日新真事誌復刻版』,浅岡邦雄「『日新真事誌』の創刊者ジョン・レディ・ブラック」(『参考書誌研究』37号)
http://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF
『日新真事誌』の創刊者 ジョン・レディ・ブラック
幕末か『ら明治初年にかけて,日本に「新聞紙」というニュー、・メディアが出現した。
この新たな媒体は,その後さまざまな曲折を経て現在に至るが,その揺三期の幕末から明治初期に,横浜や東京で英字新聞,邦字新聞を発行した英国人ジョン・レディ・ブラッ’ N(John ReddieBlack)は,周本のジャーナリズム史の上で忘れてはならぬ重要な人物のひとりである。
http://rnavi.ndl.go.jp/bibliography/tmp/37-04.pdf
天津条約 ウィキペディアWikipedia)より
天津条約(てんしんじょうやく)
・天津条約 (1858年) - 1858年、清国と英仏露米間にそれぞれ結ばれた、アロー号事件の事後処理のための諸条約。
・天津条約 (1885年4月) - 1885年4月18日、日清間に結ばれた、甲申政変の事後処理のための条約。
・天津条約 (1885年6月) - 1885年6月9日、清仏間に結ばれた、清仏戦争講和条約

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『ヤング・ジャパン 1 ――横浜と江戸――』 J・R・ブラック/著 ねず・まさし、小池晴子訳 平凡社 1970年発行
この本は、歴史としての権威を主張するものではない。
この本は、現行の条約が1858年に締結されてから経過した21年間に、外国人が多少とも興味を持ち、また多少とも関係した、
この美しい「日出づる国」で起った一番目立った事件を、簡単に物語ったものにすぎない。
                         〜著者まえがきより〜
著者 ジョン・レディ・ブラックは、幕末に来日。
横浜で週刊英語新聞『ジャパン・ヘラルド』の編集者となり、その後日刊『ジャパン・ガゼット』、写真入り隔週刊新聞『ザ・ファー・イースト』を創刊し、ジャーナリストとして活躍する。
http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/1563.html
『ヤング・ジャパン 1 ――横浜と江戸――』  (一部抜粋しています)
解説 ねず・まさし
本書のように、日本と関係の深い良書が1880年、すなわち明治13年という早い時期に出版されたにもかかわらず、80年後の今日まで、翻訳ずきな日本人から訳されないで来たことは、ひとつの不思議といわねばならない。たとえばサトーの『日本における外交官』にしても、戦前にいちおう訳されている。ルサンの『幕末海戦記』しかり、オールコックの『大君の都』は戦後だが、訳された。こう考えると、訳書の出現をみなかったことは、全く不思議といわねばならない。しかも幕末維新史にたいする史料的価値は、『大君の都』にまさるとも、劣るものではない。
訳者が、本書の翻訳を企てたのは、太平洋戦争中だった。というのは当時海賊版が日本で発行され、よく売れたからであった。しかし空襲の激化のため、思いとどまざるをえなかった。
ジョン・レディ・ブラックは1827年(文政9年)1月スコットランドで生まれた。クライスツ・ホスピタルを卒業後、海軍士官となった。その後植民地のオーストラリアに移って、商業を営んだ。ここで彼は本署に書いているように、日本に滞在したことのある友人から、美しい景色と人情の国・日本の魅力を力説されて、日本訪問を考えるようになったようだ。
オーストラリアで事業の失敗後、本国に帰るつもりで、インド、中国などを回ったうえ、観光といった軽い気持ちで、日本に立ち寄った。ところが本書でもいっているように、とうとう10年以上も在留することになった。日本人と風景の魅力にとりつかれたのであろう。
1861年文久元年)ごろ日本にいた彼は、横浜で英人ハンサードによって刊行された週刊英語新聞『ジャパン・ヘラルド』に迎えられて、編集者となり、新聞事業にうちこんだ。ハンサードが死ぬと、彼は独立して日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行した。『ジャパン・ヘラルド』の方はワトキンスが続刊した。
治外法権のある居留地の、しかも外国人の新聞は、幕府の検閲も、明治政府の干渉も受けなかった。したがって、この時代の政治、社会などを、比較的客観的に報道しており、また日本側でくわしく報じられていないニューズなども掲載されているので、英語新聞の史料的価値は高い。したがって、それを基礎とし、また諸国公使や領事の報告、通牒、または本国政府の訓令などを手広く収めた本書は、天皇家、公卿、徳川政府、封建制度にとって新天動地の乱世であったペリー来航後の日本を、冷静に客観的に、先進資本主義国の眼で描いた生きた文献として、実に高い価値をもっている。
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第一章
日本人は生来社交好きだ、だから彼らと仲良くしようと思えば、難しいことではない。それに21年前のこの国民の生活は、現代のヨーロッパに知られている以上に違っていたし、しかもヨーロッパの過去の時代(つまりヨーロッパの物語時代、「古き良き時代」とわれわれが特徴づけている時代)のものとして、知悉(ちしつ)されているものをたくさん持っていたから、これを学ぶことは、珍しくもあり、また本当に楽しかった。今日まで、日本滞在中、日本人の中で暮らすことに満足している外国人が非常にたくさんいる。彼らには「隠とん者の生活」とか、孤立しようという考えは全然起こらない。そしてこの国の人々の友情と信頼を得ようと務めたハリス氏のやり方からみると、彼がこうした生活に気をくさらせていなかったことが、納得出来る。当時はまだ、後になって外交団を緊張させたような事件は起らなかったからだ。ハリス氏には、取り決めねばならない多小重要な事柄があるにはあった――例えば、貿易のために米国人が下田に居住する権利――。しかしこれらは空気のように微々たるもので、ほとんど苦労させなかった。
天津条約をもたらした英仏軍の成功は、ハリスが条約を結ぶのに、事実助けとなった。彼は、中国で横暴なやり方をしているこの2国の施設が同じ行動を日本でも必ず取る、と主張して、幕府の恐怖をあおりたてた。こうして、2つの強国と日本との間における調停者として、必要ならば、出来るだけ尽力しようと約束をして、彼は執拗に求めていたものを獲得した。もちろんその必要はなかった。
オリファント氏(旅行家・文筆塚)はハリス氏の条約の実態を簡潔に、だが面白く、こう片づけている――
「ハリス氏は最近江戸から帰ったばかりだ。江戸で彼は、セーリス艦長(英国の東インド会社貿易船隊司令官)時代に結ばれたものよりも有利な条約を幕府と交渉するのに成功したばかりだった。ハリス氏は江戸で数ヵ月過ごしたが、その間、氏とドンケル・クルチウス氏とは、幕府に交渉に応ずるように勧める程度の、成果のあがらない努力を続けていた。1855年に、クルチウスは通商協約を結んでいた。これによると、若干の利権が外国人に許されたが、まだわずらわしいヘルトカンマー(長崎会所のこと――訳者)の機構が残っていて、貿易独占は種々の条件のもとに幕府に保留されていた。開化した原理にもとづいて貿易に従事する国々に対して、これらの条件は、さきの利権を訳に立たないものにした。他方では、ハリス氏は、自分が代表している先進国民にとって、達のある条約を結ぼうと決意していた。ドンケル・クルチウス氏は、ハリスがそうしているのを知ると、再び江戸へ行き、出来ることなら、先を越されまいと決心した。だかこの用心が役にたたないことが起こった」。
「日本の政府を動かすことが出来ないことを知ると、2人は絶望した。ドンケル・クルチウス氏は長崎に向かって陸路2ヵ月の長旅にのぼり、ハリス氏も下田に帰った。ところが下田に着くか着かぬうちに、ポーハタン号が天津条約の知らせをもって到着した。ハリス氏はただちにこのニューズを江戸へもたらした。ドンケル・クルチウス氏が、重大事件の起ったことも知らずに、長崎へ向かって苦しい旅をしている間に、ライバルのハリスは条約に調印し、下田に帰って、自分の勝利を楽しんだ」と。
下田におけるハリス氏の生活を記述したものが、出版されているかどうか私は知らない。ここにある彼の住居の絵を見ると、環境は美しい。この住居は、下田の前から約1マイル半か、あるいはもう少し離れた柿崎村にあって、美しい下田湾から歩いて5分とはかからない。
さてエルギン卿(英国の外交官)に戻ろう。こう書かれている――「下田到着の翌日、エルギン卿は奉行の訪問を受けた。奉行は、われわれが江戸湾に入ることを申し出たことを、すでに知っていて、全力をあげて、エルギン卿にこの意向を捨てるように説得するのが目的であった。彼は大勢の供回りをつれて船に来たが、みんな英国の午食のうまさを認めたようだった。私は、一行の一人がキュソラーをことわり、かわりにマラスキノ酒を要求したことを聞いて、むしろ驚いた。奉行はといえば、きわめて陽気な気質だった。彼はたえずクックッと笑い、どちらかというと、ウェラー氏の父の方を思い出させた。奉行はなんでも、すばらしい冗談と考えるらしかった。下田でヨットを引き渡して、留まっていてほしいという自分の要求を、エルギン卿がきっぱりと拒絶したことまでも。彼は要求を通すために、あらゆる議論を持ち出したが、無駄だった。彼は『わが身の成行きが恐ろしい』といって、くすくすと笑った。そのうえ、彼はわれわれに起る結果を心配し、また笑った」と。
英国使節は8月12日ヒュースケン氏を乗せて、下田を出発した。ヒュースケン氏を、オランダ語の通訳の役を果たすように、ハリス氏が親切にエルギン卿に貸してくれた。その当時も、その後しばらくの間も、日英間の意志疎通は、かなりまわりくだかった。まず使節の言葉は、オランダ通訳から、オランダ語しかわからない日本の通訳に繰り返される。この通訳がそれを日本語に直した。逆もまた同様である。こういう風に、二重にふるいにかけられては、最初の言葉の意味がいつも正確に伝えられるのは、ほとんど不可能である。しかし当時としては、これが可能な最良の方法だった。そして、開港されると、言語に通じさせるために、英仏から派遣させた見習い通訳が日本語をマスターするまでは(日本語の難しさを考慮すると、彼らは驚くほど短い期間に習得した)、オランダ人が、アメリカ公使館ばかりか、英仏公使館にも雇われた。
エルギン卿の交渉経過を段階ごとに追う必要はなかろう。和親通商条約を結ぶという大目的をしっかりと心に留めて、諸国の使節のやったとおりにした。彼は慎重に日本の法律に従うことを拒絶し、江戸へ進入し、陸上における自分と隋員の住居を要求した。さらに、横浜港の方がずっと安全であり、そこの方が会議には適しているという、まどわしの言葉をしりぞけた。こうして、もっとも容易に、また「もっとも喜ばしい」態度で、目的を達した。
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