じじぃの「人の死にざま_727_唐人・お吉」

唐人お吉 - あのひと検索 SPYSEE
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唐人お吉の唄 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wYiXml5-U90
唐人お吉 画像
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下田/唐人お吉
本名:斉藤きち
http://www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
唐人お吉 (1841-1890) 49歳で死亡。 (一部抜粋しています)
安政2年8月、米国最初の駐日総領事として、書記の若いヒュースケンとともに伊豆下田の玉泉寺に着任した52歳のタウンゼント・ハリスは、翌年の5月、下田の船大工の娘で16歳の娘お吉を雇い入れたが、なぜか3日間で解雇した。
ハリスの日記には、お吉のことは一語も出て来ない。当時ハリスは健康を害していたので、看護婦名義で日本女性のメイドを要求したのだが、下田奉行から因果をふくめられたお吉がそれなりの態度を見せたので、潔癖なハリスが当惑してひまを出したともいわれるが、とにかくお吉が玉泉寺に奉公したことも、彼女が3日間ハリスのもとで暮らしたことも、日本側の記録に残っている。またヒュースケンのほうは明らかに妾(めかけ)としてお稲という娘を雇ったことも事実である。
3日間でも、以来お吉は「唐人お吉」と呼ばれて、好奇と軽蔑の眼をあびなければならない身の上となった。
その後彼女は、横浜に出て鶴松という大工と同棲したり、また下田に戻って女髪結(かみゆい)になったり小料理屋をひらいたりして明治初年を過ごしてゆくが、大酒のため身を持ち崩し、落魄して、かっての相棒お稲の恵みを受けるような境遇におちいった。
明治20年1月ごろから病気にかかり、23年3月23日、下田のある淵に身を投げて死んだ。