じじぃの「人の死にざま_887_川路・聖謨」

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幕臣 川路聖謨の面目 気を吐く日露交渉の舞台裏 2012.1.21 MSN産経ニュース
時は幕末、来日したロシア全権のプチャーチンとのあいだに千島列島と樺太の国境画定をめぐって息詰まる交渉が行われた。我が方の代表は、幕府きっての国際通として知られた勘定奉行川路聖謨である。
まずプチャーチンは「択捉は何(いず)れの所領と心得られ候や」と口火を切る。川路は43年前の故事を挙げて応じた。プチャーチン殿、かつて貴国のゴロウニンが国後で我が国に捕らえられた一件は御存じであろう。その時、ゴロウニンはウルップ・択捉間を国境とする旨、証文で確約したではないかと。虚を突かれたプチャーチンは、この件を保留するのが精いっぱいだった。
次いで議題は樺太問題に移る。川路は実地調査を行って国境を画定すべきだと主張。一方プチャーチンは、早期に目処(めど)が立たなければ樺太に入植を開始するぞと恫喝した。これに対して川路は、貴殿の態度は何と傲岸か。もはやこれまで、交渉は打ち切ろうではないかと言い放つ。
この川路の剣幕に狼狽したプチャーチンは、「申立ての眼目は、事を速(すみやか)に致度(いたした)くと存ずる事に候間、御勘弁之(これ)有り度く候」と陳謝する。脅しには屈しない川路の面目躍如たる場面である。当節の政治家や外務官僚とは器量が違う。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120121/art12012107580002-n1.htm
川路聖謨 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
川路聖謨は、江戸時代末期(幕末)の旗本。
日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘。号は敬斎。幼名は弥吉。弟に井上清直、母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝がいる。
幕末きっての名官吏で、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
【生涯】
享和元年(1801年)、豊後(大分県)日田に生まれる。
大坂東町奉行をへて、嘉永5年(1852年)・公事方勘定奉行に就任。家禄が200俵(200石相当)から500石の知行取に加増された〔当時幕府の内規により遠国奉行就任で200表・江戸町奉行勘定奉行就任で500石へ加増〕。翌嘉永6年(1853年)、阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、ペリー艦隊来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井政憲勘定吟味役村垣範正、下田奉行伊沢政義、儒者古賀謹一郎と共に担当し、安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変魅せられたという。
安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻った(条約は弟の井上清直と岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印)。井伊直弼大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。文久3年(1863年)に勘定奉行外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満があったようで、病気を理由として僅か4ヵ月で役を辞する。
引退後は、中風による半身不随や弟の井上清直の死など不幸が続いた。慶応4年(1868年)、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
川路聖謨(かわじとしあきら) (1801-1868) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
川路聖謨は幕末切っての名官吏であった。ただ有能であったのみならず、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。
貧しい小吏の子に生まれながら、彼は数々の幕府の要職を歴任したが、中でも有名なのは、長崎と下田におけるロシアのプチャーチンとの、日露国境と開港問題についての交渉である。
この応接ぶりにロシア側は舌を巻きながら、彼の人柄に魅せられ、その肖像画を書こうとしたのを見て、川路はロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と異議を申したてて笑わせた。しかしプチャーチン随行していたゴンチャロフは書いている。
「川路は非常に聡明であった。彼は私たちに反駁(はんばく)する巧妙な論法をもってその知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。その一語一語が、そのまなざし一つ一つが、その身ぶりまでが、すべて常識とウイットと炯眼(けいがん)と練達を示していた。明知(めいち)はどこへ行っても同じである」
その川路も、安政6年58歳のとき、将軍継嗣(けいし)問題について井伊大老の忌避(きび)にふれて閑職に追いやられた。
慶応2年、65歳のとき、中風にかかり半身不随となった。
明治元年3月7日、官軍の江戸に迫る足音を聞きつつ、みずから「頑民斉」と名乗ったが3月14日、西郷と勝との間の江戸開城の約成った翌日自決した。
左手はきかないので、右手だけで作法通り腹を切り、次に拳銃でのどを撃った。日本における拳銃自殺の第1号ではあるまいか。
彼は要職を歴任したとはいうものの、べつに閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、みごと幕府と武士道に殉じたのである。

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