じじぃの「人の死にざま_743_R・マクドナルド」

ラナルド・マクドナルド - あのひと検索 SPYSEE
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森山栄之助 画像
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北海道の旅 利尻島野塚で知った幕末の物語
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マクドナルドの足跡を求めて
日本における初のネイティブ英語教師・ラナルド・マクドナルド 〜長崎へ小旅行・マクドナルドの足跡を求めて〜
http://homepage3.nifty.com/nakajun/eigohajime/mcdonald/macdo.htm
ラナルド・マクドナルド ウィキペディアWikipedia)より
ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald, 1824年2月3日 - 1894年8月5日)は、アメリカ人。日本初のネイティブスピーカーの英語教師。
【経歴】
スコットランド系の父親と、アメリカインディアン系の母親の間に生まれる。インディアンのルーツは日本人だと信じ、日本にあこがれ、1848年、捕鯨船員となり、船が日本近海に来た6月27日(グレゴリオ暦)、単身でボートで日本に上陸を試みた。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得したが、マクドナルドは応じなかった。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えた。最初、焼尻島に上陸、二夜を明かしたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで7月1日(グレゴリオ暦)、利尻島に上陸。マクドナルド自身の記述によれば、不法入国では処刑されるが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったという。ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、島の別の場所で日本人に20日間拘留されたが、扱いは悪くなかったという。この後、8月に密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られた。そこから長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。それまでは(オランダ語などを経由せず)直接的に英語を教える教師はいなかったので、彼が最初の英語教師だったことになる。
翌年4月26日(グレゴリオ暦)、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻った。日本での日本人のマクドナルドの扱いは終始丁寧なもので、マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だった。出航間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」と日本語であったという。「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれた。
帰国後は日本の情報を米国に伝えた。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えた。日本ではただの英語教師としてしか記憶されていないが、アメリカの歴史ではかなりの重要性を占める人物として、研究や紹介の書籍が多く公刊されている。
森山栄之助 ウィキペディアWikipedia)より
文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々オランダ通詞を務めていた。嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ人ラナルド・マクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。
嘉永7年(1854年)のペリー来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。文久2年(1862年)には開港延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。
なお、彼の英語塾の門下生には津田仙、福地源一郎、沼間守一などがいる。また福澤諭吉も短期間ではあったが学んでいる。

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『伝説のアメリカン・ヒーロー 西江雅之/著 岩波書店 2000年発行
ラナルド・マクドナルド サムライの英会話教師 (一部抜粋しています)
ラナルド・マクドナルド。特別な歴史書でも読まなかかぎり、アメリカでも日本でも、彼の名に出会うことはないだろう。しかし、彼は日米関係の歴史の始まりを陰から支えた人物の一人なのである。
日本に開国を迫って黒船でやってきたペリーの通訳をするという大任を果たしたサムライに、英語を教えたのはラナルドだったからである。鎖国の時代に、どこで英語を教えていたのかと言えば、長崎の下西川長の神社の参道の脇にある座敷牢の中で、である。丁髷(ちょんまげ)を結ったサムライが数人。畳の上に正座して、和紙を広げ、墨も黒々と筆でアルファベッドを書いていたのだろう。ペリーの通訳をした森山栄之助は、その時の一番弟子である。
ラナルドは、旅行で日本を訪れたのではない。北海道の端から遥々と長崎まで送り届けられてきた犯罪者、すなわち、密入国者であった。いや、正確に言えば、漂流民を装って日本に上陸した向こう見ずの青年だった。
1824年2月3日、ラナルドが生まれたのは、現在のオレゴン州の海岸部、コロンビア川の河口近くのアストリアである。当時はフォート・ジョージと呼ばれていた。その頃、オレゴン州ワシントン州の沿岸部と、国境を越えたカナダ側のブルティッシュ・コロンビア沿岸部は、インディアンの世界であった。多数の異なった部族が住んでいたが、チヌーク族と呼ばれる集団は特に広い範囲での活動力を持っていた。異なった言葉を話す集団同士が交易をするための”チヌーク・ジャーゴン”なる共通語すらできていた。それはチヌーク語、ヌートカ語以外に、他のインディアン諸語、フランス語、英語、ロシア語などからの単語を多く取り入れた不思議な交易語であったが、人々はそれに頼って経済生活の基盤を立てていた。沿岸部には、一旗(ひとはた)揚げようと目論むロシア人、フランス人、イギリス人、そしてアメリカ人も集まっていた。
当人はずっと後になって知ったことだが、ラナルドの母は、そのチヌーク族の大酋長コンコムリの娘、英語名プリンセス・サンデーであった。そしてスコットランド北部出身の父は、当時、アメリカ大陸北部全域で最大の力を持っていたハドソン湾会社のその地方の総責任者であった。彼は、大学卒業後にカナダに渡り、33歳でアストリアにある事務所に赴任してきたのだ。
その頃は、人種が違っても、偉大な白人とインディアンの良家の娘との結婚は、特に珍しいものではなかったという。家庭生活も周囲の人々と違和感なく維持できるものであった。
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ラナルドは、赤ん坊の時にインディアンの母と死別した。その後の1年ほどは、母の姉の手でインディアンとして育てられた。父はヨーロッパ系の15、6歳の女性と再婚し、10人以上の子をなしたという。
その女性はスイス人だと言われているが、事実は不明である。ラナルドは3歳頃からその女性に温かく育てられたので、実の母が誰であるかを知らずに成長した。
幼年時代を過ごしたのは、太平洋沿岸の地域である。いくつかの土地で英語での教育を受けたラナルドは、15歳になって初めて白人が圧倒的に多い土地に行った。カナダの東部である。そこでは”黒人”と呼ばれる人も見た。その土地で、彼は自分がインディアンであることを知らされ、それを意識するようになった。”人種”という、得体の知れない概念に取りつかれたのである。
ラナルドはやがて船員になった。そして、20歳の時、日本への密航を決意した。その動機は、はっきりと知らされていない。インディアンであることで白人娘に失恋し、その痛手から逃れるためであったという説もある。インディアンの祖先は日本人であるという奇妙な説に囚われたからだという説もある。実際ラナルドは、日本を美化しすぎる面があった。
船員となって3年の月日が経った。ラナルドは国内東部で仕事をした後、まず、ニューヨークからハワイに渡った。そこから捕鯨船にのりこんだ。ラナルドを乗せた船は、太平洋のマリワナ諸島を通り、日本列島の南部に入り、日本海沿岸を北海道に向けて北上した。
1848年(嘉永元年)6月27日、ラナルドは北海道の北部に近づいた所で船から離れた。船員は皆、鎖国状態にある日本に密航しようなどという無謀な行動を阻止しようとした。そかし。それは船長と話し合いをつけた上での企てであった。彼はいくらかの食料を積んだボートを漕ぎだし、単身で”日本”という憧れの地を目指したのである。
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やがて、ラナルドは北海道の宗谷に連行されることになった。そこの役人たちは冷たかった。挨拶を交わすことさえなかった。ひどい目にあうことはなかったが、彼は監禁室に閉じ込められることになった。2、3日して、今度は松前に身柄を移された。船で15日かけて松前に渡り、また取り調べをうけ、次は長崎に身柄を移されることとなった。大きな帆船の甲板の下にある、格子つきの部屋に閉じ込められたままの長旅であった。長崎に着いたのは10月11日、北海道に上陸してから3ヵ月半が経っていた。
長崎では、港に投錨(とうびょう)した船を訪ねて沢山の人間がやってきた。中には長崎奉行もいた。身元調査に立ち会った役人の一人、森山栄之助はオランダ語を流暢に話し、ラテン語やフランス語の学習にも熱意を持つ知的な人物であった。それに紳士であった。
奉行所キリスト教の踏み絵をすませ、身元に関する訊問を終え、奉行から”肝っ玉の太い奴”との評価を得たラナルドは、何度かの尋問を受けた後で重罪を免れ、座敷牢監禁の身となった。畳、火鉢、急須(きゅうす)と茶碗が揃えてある小さな部屋だった。
ラナルドの獄中での態度が良かった。日本風に情けにすがるという術にも長けていた。それに、アジア人風の容貌も人々に違和感を与えなかった。そんなことで奉行所の役人たちからの信用を得たラナルドは、やがて英語の教師として彼らを教えることとなった。14人の生徒のうち、特に森山栄之助は、優秀な生徒としてラナルドの記憶に残された。
日本滞在10ヵ月で、ラナルドは長崎に寄港したアメリカ船ブレブル号に引き渡された。その船は1849年4月27日に長崎を出港し、上海、香港、マカオ、ホノルルを経由して、ラナルドを無事にアメリカに送り届けた。
ペリーが黒船に乗って浦賀に姿を現したのはその4年後、1853年のことである。

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