じじぃの「人の死にざま_594_ヘボン」

ジェームス・カーティス・ヘボン - あのひと検索 SPYSEE
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親指シフトローマ字入力の速度比較 動画 YouTube
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Katharine Hepburn - The Person.wmv 動画 YouTube
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ジェームス・カーティス・ヘボン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジェームス・カーティス・ヘボンは、米国長老派教会系医療伝道宣教師であり、 ヘボン式ローマ字の創始者。医師。ペンシルベニア州ミルトン出身。江戸時代に来日。
ヘボン」はJames Curtis Hepburn が、日本で日本人向けに使った名前。詳しくは「ヘボン」という名前の節を参照のこと。 アカデミー賞女優キャサリン・ヘプバーンヘボンと同じHepburnの一族である。
【来歴】
1832年プリンストン大学卒業、ペンシルベニア大学医科に入学。
・1846年、ニューヨークで病院を開業。
・1859年(安政6年)4月24日、北アメリカ長老教会の宣教医として、同じ志を持つ妻、クララと共にニューヨークを出発。香港、上海、長崎を経由し、1859年10月17日(安政6年9月22日)に横浜到着する。宗興寺(横浜市神奈川区)に神奈川施療所を設けて医療活動を開始。
1863年文久3年)、横浜に男女共学のヘボン塾を開設。その後、ヘボン塾は他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携。箕作秋坪の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療する。その後、当時手がけていた『和英語林集成』を岸田吟香が手伝うようになる。
・1867年(慶応3年)、三代目沢村田之助の左足切断手術。日本最初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、美国(中国語でアメリカ合衆国の通称。3版から米國に変わる)の下に平文の名で出版。日本語を転写する方法として英語式の転写法を採用。第3版まで改正に努め、辞典の普及に伴い、ヘボン式ローマ字の名で知られるようになった。
1871年明治4年)、ヘボン塾の女子部が同僚の宣教師、メアリー・キダーにより洋学塾として独立。洋学塾は、後にフェリス女学院の母体となる。
・1887年(明治20年)、ヘボンは私財を投じて東京都港区白金の地に明治学院(現・明治学院高等学校・同大学)として統合し、明治学院初代総理に就任した。
・1892年(明治25年)、『聖書辞典』を山本秀煌と編纂。10月22日に妻の病気を理由に離日。
・1911年(明治44年)、病没。
【ローマ字の歴史】
1591年にポルトガル式ローマ字で出版した使徒行伝『サントスの御作業の内抜書』が現存する最古のローマ字文書である。ポルトガル式やオランダ式ローマ字は仮名との一対一の対応がなく、使用は宣教師や学者などのごく狭い範囲に限られた。
仮名にローマ字を一対一で対応させたものは、1867年にジェームス・カーティス・ヘボンが作成した和英辞書『和英語林集成』の中で、日本語を現すために用いたローマ字が最初のもの。この辞書は第9版まで版を重ねるが、第3版から用いたローマ字はヘボンの名を入れヘボン式ローマ字として知られる。
しかしこの方式は英語の発音に準拠するために、日本語の表記法としては破綻が多いとする意見があった。そうした立場から、1885年に田中館愛橘が音韻学理論に基づき日本式ローマ字を考案した。日本式は音韻学理論の結実として、日本国内外の少なくない言語学者の賛同を得た。しかし英語話者にとって英語の発音に準拠しない日本式は受け入れがたいものであり、どちらを公認するかで激しい議論が続いた。そして、両者が表音主義の下に歩み寄って改変を行ったのが1937年に内閣訓令第3号として公布された訓令式ローマ字である。
その間、1924年の第15回衆議院議員総選挙ではローマ字での投票が認められた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヘボン (1815-1911) 96歳で死亡。 (一部抜粋しています)
ペンシルベニア大学医学部で学び、ニューヨークで開業し、眼科医として盛名を得たドクトル・ヘボン、正しくはジェームス・カーティス・ヘプバーンは、1859年(安政6年)44歳のとき、クララ夫人とともに日本にやって来て、横浜で施療所をひらいた。当時日本はまだ異人には生命の保証もおぼつかない物騒な時代であった。
ヘボンの目的は日本にキリストの福音(ふくいん)を伝えるためで、それは彼の若いときからの願望であり、施療はその目的のための手段ですべて無料であった。彼はニューヨーク時代に蓄積した財産をそれにあてた。
専門は眼科であったが、名医の噂におしかけるあらゆる病気の患者の中には、脱疽(だっそ)に苦しむ名女形三世沢村田之助や、癩(らい)を病む高橋お伝の夫もいた。
ヘボンはまた、聖書を和訳するために岸田吟香の協力を得て和英辞書を作ったが、そのためにはいわゆるヘボン式ローマ字を生み出し、また一方彼の塾から発展した明治学院からは、のちに島崎藤村馬場孤蝶和田英作を出した。
日本に骨を埋めるつもりであったヘボン博士も、やがて――みずから「今は老年となって覚えが悪くなって、耳が遠くなって目がかすみて、役に立たぬところの者となりました」(送別会における日本語の挨拶)と告げなければならない日が来た。明治25年10月のことである。彼は77歳になっていた。
アメリカに帰ったヘボンは、ニュージャージー州イースト・オレンジに隠栖したが。92歳で妻クララを失って孤独な晩年をすごし、1911年9月21日午前5時、96歳で老衰のため、清冽(せいれつ)高潔な生涯をとじた。

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