じじぃの「王侯騎馬図屏風・南蛮美術の最高傑作を探る!日曜美術館」

南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 サントリー美術館 動画 YouTube
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聖フランシスコ・ザビエル像 画像
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目玉の泰西王侯騎馬図屏風 画像
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王侯騎馬図屏風 Google 検索
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南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 インターネットミュージアム 動画あり
■南蛮美術の傑作、両屏風が一堂に
神戸市立博物館とサントリー美術館が分蔵する「泰西王侯騎馬図屏風」。一見すると西洋絵画に見紛うような表現ながら、油彩ではなく墨や岩絵具といった日本画の材料を用いて描かれている不思議な魅力の絵画です。もとは福島・会津城の障壁画であったと伝えられていますが、戊辰戦争による開城の後に行方が二手に分かれて、両館が所有するに至りました。
図柄は西洋の王、計8名が騎馬に乗った勇壮なもの。戦国の世で武家の心を掴んだと思われますが、誰が何のために描いたのかなど、詳しいことは分かっていません。
ふたつの屏風が一堂で展示されるのは、東京では25年ぶりのことです。今回は東京都文化財研究所の協力により、最新の技術を用いた光学調査も行われました。
調査の結果、金地の下から「金」という指示書きの文字が見つかったほか、神戸市立博物館本とサントリー美術館本とでは金箔の厚さや純度に違いが見つかるなど、様々な新事実も判明しています。
本展は7章構成で、屏風以外にも同時代の南蛮漆器、南蛮屏風なども一堂に集め、宣教師と南蛮人がもたらした華麗な美術品の数々を紹介しています。
西洋の技法を身につけた日本人による美術品や、流行だった南蛮趣味を取り入れた工芸品など、南蛮からの影響は多方面に広まりましたが、後にキリスト教の禁止にともない姿を消していくことになります。第1章には南蛮船の上で日本人と南蛮人が双六(今のバックギャモン)をしている朗らかな図柄の屏風がある一方、第5章には火あぶりにされる信者を描いた凄惨な殉教図も。大きな時代のうねりが胸に迫ります。
http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=89
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ ウィキペディアWikipedia)より
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察使として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。
ジョバンニ・ニコラオ ウィキペディアWikipedia)より
ジョバンニ・ニコラオまたは、ジョバンニ・ニッコロ(Giovanni Nicolao、Giovanni Niccolo 1562年-1626年)は、イタリア人の画家。宣教師。ナポリ生まれ。
1583年、イエズス会から日本に派遣される。1590年頃から、神学校で西洋絵画を教える(当時、アジア最大級の西洋絵画育成機関であった)。その後1620年頃までに、キリスト教の禁教により国外に追放されマカオで没したという。
南蛮美術 ウィキペディアWikipedia)より
南蛮美術は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて流行した西ヨーロッパ文化(南蛮文化)の影響を受けて成立した美術のこと。
漆器、陶磁器、金銀細工などに優品が残る。
イエズス会によって遠近法など西洋画法が伝えられ、日本人による洋風絵画なども制作された。
・茶道の作法や道具にも影響が見られる。
鎖国政策によって技法は消滅した。
【主な作品】
・二十八都市万国絵図屏風 宮内庁三の丸尚蔵館
・泰西王侯騎馬図屏風(重要文化財サントリー美術館、神戸市立博物館(分蔵)
・四都図世界図屏風(重要文化財)神戸市立博物館
・十二都市図世界図屏風(重要文化財)南蛮文化館
泰西王侯騎馬図 ウィキペディアWikipedia)より
泰西王侯騎馬図(たいせいおうこうきばず)は、会津藩松平家に伝来した初期洋風画の八曲一双の屏風。重要文化財
【概要】
キリスト教の王と異教の王が対峙する主題と短縮法や陰影法の表現などは西洋風だが、背景の金箔、墨絵による下図、彩色の岩絵の具などは日本画のもので、高い完成度をもつ和洋折衷の作品。原図は、アムステルダムで1606年から1607年に刊行された世界地図(ウィレム・J・ブラウ図)を基に、1609年に海賊版として刊行された大型世界地図(いずれも現存せず)に描かれた周囲の装飾画と推定されている。17世紀初頭、世界地図の上部を飾る図像を日本で拡大し、装飾性をもつ他に例をみない騎馬図を完成させた。

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日曜美術館 「“王侯”はどこから来たのか 〜南蛮美術の最高傑作を探る〜」 2012年4月8日 NHK Eテレ
【出演】夢枕獏(作家)
この秋、およそ400年前に描かれ、今は別の美術館に所蔵されている1対の屏風(びょうぶ)南蛮美術の傑作「泰西王侯騎馬図屏風」が対面する。描かれているのは、立派な甲冑(かっちゅう)武具に身を包み、堂々たる体躯(たいく)のアラビア種の馬にまたがる王侯たち。屏風の片方では、王侯は対になって勇ましく剣をかわし、別の方では堂々と正面を見据えている。鮮やかな色彩と、巧みな立体表現で王侯たちを迫力ある姿で捉えた最高の騎馬図と言われる。しかしこの屏風は誰が、何のために、どのように描いたのか、謎に包まれている。さらに、この二つの屏風は数奇な運命をたどっている。長崎で描かれたとされる屏風だが、その後会津の城に運ばれている。その後片方は、戊辰(ぼしん)戦争の際に、「維新の十傑」の一人、前原一誠の手に渡り山口県萩市へ持ち出され、もう一つは会津松平家の子孫に受け継がれながらも、第2次世界大戦中に東京大空襲に遭(あ)うことになる。
番組では、最新の科学調査から明らかになった新発見を含めて、「泰西王侯騎馬図屏風」の実像と流転の物語に迫る。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/1120/index.html
日本の美術〈第19〉南蛮美術 岡本良知/著 平凡社 1965年発行
キリシタン洋画と銅版画 (一部抜粋しています)
東洋におけるイエズス会の最高首脳者ともいうべき、巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、1579年(天正7)に日本へ巡察に渡来し、3年近く滞在して、九州三候の遣欧使節をともない、82年(天正10)に日本を去ったが、彼は84年インドへ帰って間もなく、使節らのゴア出発にあたり、それに託してローマにあるその会の総長へあてた書簡でも、使節付き添いの宣教師への注意書のうちでも、少年使節に実際に西欧における盛大なキリスト教、諸王公、諸都市の状況を見せるようにと繰り返し述べたほどである。一方では、この目的に添うような絵画をもって早く日本人にそれを知らせたいというので、1587年の報告書には、カトリック教会の盛況を信者に理解させるために、ローマの都市図や教皇ミサの図の送付を希望し、また西欧の騎馬武士の絵や戦争の絵が日本人によろこばれるから、それをも入手したいと書いているが、もちろん容易にかなえられることではなかった。
ちなみに巡察使ヴァリニャーノが、1575年より日本の布教状況を仔細に巡察した後、日本布教の将来に関して宣教師たちの意見を徴し、布教の欠陥を補うために考案した政策に言及しよう。例えば、将来の信者増加に備え、日本人の知能とその社会生活に応じて日本人のうちから聖職者を養成するため、織田信長の本拠地安土(あづち)に、イエスズ会の最大の支持者大友義鎮(おおともよししげ)の領土、豊後の府内と臼杵(うすき)に、また堅牢な信者でありかつヴァリニャーノの心酔者であった有賀鎮貴(しげたか)の城下肥前の有馬に教育機関を設けたごとき、それらの学校に用いる教科書や信者用の多数の図書を、宣教師や学生が一人一人手写して用いるのでは労多く、といってそれを西欧から取り寄せるにも出費が大きくて困難であり、かつは日本人に適するように編述した書でなければならぬと考えて、これを日本のイエスズ会が編纂(へんさん)出版して自給する方針を定めたごときである。教理問答集(カテキズモ)をラテン語より日本語に訳し、九州三候使節の訪欧に託して、1586年にリスボンでローマ字版を出したこともある。
ヴァリニャーノが、日本在留中にすでに欠乏を痛感していた教会美術品については、どのような配慮をしたかを少しも報ぜられていない。想像するに、イエスズ会本部へその送付を請うたのも、彼の意図した一手段であったかもしれない。つぎには安土、府内、臼杵、有馬に設立したイエスズ会の学校で、普通の学科のかたわら美術や工芸の教育をも日本人に与えて、その専門家を養成することをも考えたかもしれない。しかし、宣教師中にその途で日本人学生を指導するだけの技能に達している者がいなかったら、これを実地するにおよばなかったのではなかろうか。これは1つの疑問である。
彼が九州三候の使節を伴って1582年2月に日本を去り、その3月から年末までマカオに滞留していた間に、イエスズ会本部から日本へ派遣されてきた若いイタリア人画家の聖職者ジョバンニ・ニッコロに会っている。ニッコロはその年の8月初旬にインドからマカオへ着き、翌年の晩秋まで滞留した。そのときに居あわせた同じく日本へ向かう後の準管区長ペドロ・ゴーメスやフランチェス・パッシオを加えて、ヴァリニャーノが日本布教上の種々のことを相談したが、そのうちに、美術・工芸に関する懸案も話題に上ったことであろう。そして何らかの方針を彼らに指示したかもしれない。
ジョバンニ・ニッコロはゴーメスおよびパッシオの2人の上司ともに翌83年の夏には長崎へ到着した。
ニッコロは渡来後数年間は健康にめぐまれなくて、画業にいそしむことができなかったらしい。知られるかぎりでは。彼がマカオでは救世主画像のほかに、油彩(ゆさい)のイタリア全国図をも描いたようである。日本来着後の作品としては、1583年に長崎と有馬とで信者のための救世主の画像を各1点、84年には有馬に設立された新聖堂のためにキリスト画像1点その他がある。86年には大友義鎮の臼杵の聖堂に厚板に油彩の聖母像を描いたが、その年豊後へ侵入した島津軍のために焼亡してしまった。また、準管区長ガスパール・コェリョの命により中国(マカオ)へ送るために大型の立派な救世主画像を描き、その他の銅版油彩の使徒ステファヌスの画像にも腕をふるった。しかし遺憾ながら、その1つも今に残っていない。
彼は後でマカオで1826年(寛永3)に死亡したが、その年に同地からパルメイロという宣教師が書いた書簡には、ニッコロは「性温順にして徳義あり、数学、絵画、時計製作の特技をもって」日本と中国との宣教師中でとびぬけてすぐれていて、「神学校(セミナリオ)で学生に絵画を教え、諸聖堂へ聖画像を供給した」とあるから、ルネサンスのイタリア芸術家の特徴を具えて、多芸多能であったことが知られる。健康が回復した後に、すなわち豊臣秀吉の宣教師追放令が出たころから、有馬、八良尾(はらちお)の神学校で日本人学生に絵画や版画の技術を教えたかもしれない。彼が1582年にマカオで、ヴァリニャーノより指示を受けたとすれば、それは画学生の養成に関するものであったろうと想像できるからである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
4/8 NHK Eテレ日曜美術館』という番組で「“王侯”はどこから来たのか 〜南蛮美術の最高傑作を探る〜」を観た。
ちょっと変わった感じの、屏風に描かれた絵が出てきた。南蛮美術の最高傑作と言われる「泰西王侯騎馬図屏風」だ。
「屏風の片方では、王侯は対になって勇ましく剣をかわし、別の方では堂々と正面を見据えている。鮮やかな色彩と、巧みな立体表現で王侯たちを迫力ある姿で捉えた最高の騎馬図と言われる」
南蛮美術とは織田信長が生きていた時代から江戸にかけてヨーロッパ文化の影響を受けて成立した美術のことで、主にポルトガルから伝わった美術だ。
「鮮やかな色彩と、巧みな立体表現で王侯たちを迫力ある姿で捉えた最高の騎馬図と言われる。しかしこの屏風は誰が、何のために、どのように描いたのか、謎に包まれている」
「この屏風は誰が、何のために、どのように描いたのか、謎に包まれている」、か。ふう〜ん。謎なんだ。
この屏風に強い光を当てたところ、背景の金色部から「金」という字が浮き上がってきた。
どうも、外人さんが描いたものではなさそうだ。
図書館から 『日本の美術〈第19〉南蛮美術』という本を借りてきた。本の中の「キリシタン洋画と銅版画」にこんなことが書かれている。
「ニッコロは『性温順にして徳義あり、数学、絵画、時計製作の特技をもって』日本と中国との宣教師中でとびぬけてすぐれていて、『神学校(セミナリオ)で学生に絵画を教え、諸聖堂へ聖画像を供給した』とあるから、ルネサンスのイタリア芸術家の特徴を具えて、多芸多能であったことが知られる。健康が回復した後に、すなわち豊臣秀吉の宣教師追放令が出たころから、有馬、八良尾(はらちお)の神学校で日本人学生に絵画や版画の技術を教えたかもしれない」
この本にニッコロが描いたとされる「三聖人殉教図」という絵が載っている。明らかに「泰西王侯騎馬図屏風」とは違ったタッチだ。
ニッコロさんがコッソリ、日本人学生に教えたものなのだろうか?
日本人が描いたのなら、「泰西王侯騎馬図屏風」の中にxx画とか入っててもよさそうなものだが・・・。
日本に南蛮美術が伝わった頃、織田信長安土城に居を構えていた。家臣明智光秀の信長への謀反で、本能寺の変後まもなくして安土城も焼失してしまった。
もしかしたら、織田信長はこうした南蛮美術品に囲まれて、生活していたのかもしれない。
結構、こういう美術品は焼失してしまったものが、多いんだろうなあ。