じじぃの「人の死にざま_662_菱川・師」

菱川師宣 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%8F%B1%E5%B7%9D%E5%B8%AB%E5%AE%A3/6135/
菱川師宣記念館 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-2opc0uTYg0
菱川師宣墨摺絵本 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-q6sMDFG8MI
菱川師宣 見返り美人 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Beauty_looking_back.jpg/210px-Beauty_looking_back.jpg
菱川師宣 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
菱川師宣(ひしかわもろのぶ、元和4年(1618年)月日不詳-元禄7年6月4日(1694年7月25日))は、近世日本の画家。江戸初期に活動した絵師の一人。
浮世絵を確立した人であり、すなわち、最初の浮世絵師である。
【概説】
浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。 それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵を、鑑賞に堪え得うる独立した絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。
祖父は藤原七右衛門といい、京都在住であったが、父の吉左衛門は、菱川を称し、安房国平郡保田本郷(現・千葉県鋸南町)に移住、道茂入道光竹と号した。師宣は、ここで暮らす縫箔師の家に生まれた。俗称は吉兵衛といい、晩年、友竹と号す。そして、明暦の大火(明暦3年)の後、万治年間になって、江戸に出て狩野派、土佐派、長谷川派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、その上に、市井の絵師らしい時代感覚に合った独自の新様式を確立した。
貞享3、4年頃からは円熟味と引換えに様式の固定化が目立つようになった。明暦の大火直後の再建の槌音も高い江戸市民の嗜好に、師宣ののびのびとして翳りのない明快な画風もマッチしていた。『吉原恋の道引』、『岩木絵つくし』、『美人絵つくし』などを見ても線が太く若々しいものであった。その好色的な図柄も開けっ広げで、健康的なのは時代の目出度さと思える。落款に「大和画工」や「大和絵師」という肩書きをつけているのも、その自負、自覚の表れである。また、絵図師・遠近道印(おちこち どういん)と組んで制作した『東海道分間絵図』(神奈川県立歴史博物館所蔵)は江戸時代前期を代表する道中図として知られている。大衆の人気を得た師宣は、好色本を主に次々と絵入り本を刊行、やがて、その挿絵が観賞用として一枚絵として独立、墨一色による大量印刷のため、価格も安く誰でも買えるものになった。「吉原の躰」、「江戸物参躰」、「大江山物語(酒呑童子)」や、無題の春画組物など墨一色で、稀に筆彩された、独自の様式の版画芸術が誕生、ここに浮世絵が庶民の美術となったのであった。
師宣は屏風、絵巻、掛幅と様々な肉筆浮世絵も描いており、それらは江戸の二大悪所といわれた歌舞伎と遊里、隅田川や花見の名所に遊び集う人々や遊女であった。その大らかで優美な作風は浮世絵の基本的様式となっていった。なかでも、「見返り美人図」は師宣による一人立ち美人図であるという点で珍しい作例で、歩みの途中でふと足を止めて振返った印象的な美人画様式は、まさに榎本其角の『虚栗』において「菱川やうの吾妻俤」と俳諧で謳われたそのものであるとみられる。師宣は肉筆浮世絵では「日本繪」と冠していることが多い。
元禄7年(1694年)年6月4日、師宣は村松町の自宅で死去し、浅草において葬儀が行われた。終生故郷を愛した師宣の遺骨は房州保田の別願院に葬られた。

                                • -

『日本絵画の楽しみ方完全ガイド』 細野正信/監修 池田書店 2007年発行
菱川師宣 『見返り美人画』 浮世絵を庶民に広めた「菱川ブランド」の代表作! (一部抜粋しています)
何か気になるものでもあったのか、歩みを止めて、ふと後方に視線を送る女性。さり気ない動作の中で見せる表情が、何かを訴えかけているようにも思える。「菱川やうの吾妻俤(あずまおもかげ)」と上方でも賞賛された所以だ。ところで、描かれている女性はどんな理由で後ろを見送っているのか。
実はこのポーズ、当時流行した帯の結び方や髪の結い方などを、見る者にアピールするためのものだったという。いわばこの美人図は、現代のファッション写真にも通じるものがある。当時の女性たちは、この絵に描かれた帯の結び方をこぞって取り入れたのだろう。
師宣の絵師としてもスタートは、大衆向けの挿絵(さしえ)であった。その後、1672年には「武家百人一首」という挿絵本に、名が入るまでになった。挿絵が重要視しされていなかった当時としては異例のことだ。そしてついには、本の中の挿絵の割合を増やしていき、連作版画(揃物と呼ばれた)を誕生させた。挿絵を独立した商品として、認知させた功績は大きい。浮世絵の祖と称されるのもそのためだ。
菱川師宣は「見返り美人図」のような肉筆画のジャンルで、数多くの作品を残している。なかでも「北桜及び演劇図巻」と呼ばれる巻物は、歌舞伎と遊郭を同時に描いたものとして知られている。

                                • -

菱川師宣 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E8%8F%B1%E5%B7%9D%E5%B8%AB%E5%AE%A3&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=XTEvTsG3GY3ymAXKudRC&ved=0CCkQsAQ&biw=983&bih=556