じじぃの「人の死にざま_632_司馬・江」

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司馬江漢
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司馬江漢 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
司馬江漢は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す。
【略歴】
生まれつき絵を好み、宝暦11年(1761年)15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河狩野派の狩野洞春(美信)に学ぶ。しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、明和半ば頃おそらく平賀源内の紹介で宋紫石の門に入る。ここで南蘋派の画法を吸収しつつ、紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵を描いた。ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、師事した順番は諸説あってはっきりしない。後に洋風画を描くに至った。源内と接点があり、彼を通じて前野良沢や小田野直武に師事したとも言われている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
司馬江漢(しばこうかん) (1747-1818) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「我若き時より志を立てん事を思い、何とぞ一芸を以て名をなし、死後に至るまでも名を胎(のこ)すことを欲して」
と、のちにその著『春波楼筆記』に書いた司馬江漢は、その一芸を絵に求め、はじめは浮世絵を学んだが、平賀源内を介してオランダ趣味を養い、オランダの百科辞典エッチングの項を研究して、日本最初の銅版画を作り出した。天明3年、36歳のときであった。「江戸の西洋画土」と呼ばれるゆえんである。
江漢は銅版画を通じて西洋を知り、近代的な科学思想の持主となった。「大と小とは限りなき事にて、又その先は人力にては知られず」の言葉は宇宙の無限と原子の極小を暗示しているかのようであり、「喰ふてねるつるんで迷ふ世界虫上天子より下庶民まで」の歌は彼の人間平等観を表現している。
この思想は、生来の皮肉、自嘲の性格と重なって、晩年には一種のニヒリストとなったらしい。
文化10年、66歳のとき彼は、「今は画も天文も窮理もおらんだも不残あきては困入申(こまりいりもうし)候」という心境になり、蒸発を試みて、自分の死亡広告をチラシにしてくばった。
「江漢先生老衰して画を需(もとむ)る者有りといえども描かず、諸侯召せども往かず、蘭学天文或いは奇器を巧む事にも倦(う)み、ただ老荘の如きを楽しみ、(中略)相州鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟子となり、ついに大悟して後、病(わずら)うて死にけり」
このころから彼は、自分の年を9歳もサバを読んだ。ただし年上にである。
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町で人が呼びかけると、死んだ人間が口がきけるか、といって知らん顔で立ち去ったという。
そして3年目の文政元年10月31日に、こんどはほんとうに死んだ。
なお彼は随筆『春波楼筆記』に、彼が熱海滞在中、阿波侯の別荘から早朝も弓弦のひびきが聞こえるので、阿波侯は暗君と伝えられるが実はそうではないのではないか、と書いた。この一節をのちに吉川英治が読んで、『鳴門秘帖』の構想が成ったという。
 無といふもあたら言葉の障(さわり)かな
  むと思はぬ時ぞむとなる
                                 司馬江漢

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