じじぃの「人の死にざま_462_平賀・源内」

平賀源内 - あのひと検索 SPYSEE
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平賀源内のエレキテルPV 大人の科学マガジンVol.22 動画 YouTube
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平賀源内記念館
http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/
平賀源内 ウィキペディアWikipedia)より
平賀源内は江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)である。
【経歴】
讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。
する。
大阪、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。物産博覧会を度々開催し、宝暦12年(1762年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職する。
宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念する。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日獄死、享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられる。
【人物と業績】
・天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼などの焼き物を作成したり、多彩な分野で活躍した。
・科学者としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
・『エレキテル』の修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという。
・「夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
平賀源内 (1728-1780) 51歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日本の超ミニ・レオナルド・ダ・ヴィンチともいうべき平賀源内は、安永8年11月21日、馬鹿馬鹿しい錯覚から殺人を犯した。
田沼意次が別荘を作るにあたって、ある請負業者に見積もりを出させ、それを源内に見せた。源内が、自分ならその2、3割引きで作って見せるといったので、田沼は工事を彼にまかせようとした。最初の請負業者が抗議に来、源内は自分の設計書を見せて説明した。相手は納得し、和解の酒盛りをして、その業者は源内宅に泊った。翌朝、酒からさめた源内は自分の設計書が紛失していることに気づき、その町人のしわざにちがいないと思い込んで口論となり、昂奮のあまりついに相手を斬った。そのあとで設計書はちゃんとあることが判明したのである。
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俗説もあるが、源内が突発的に殺人をやったことは事実である。そして彼は小伝馬町の牢にはいる羽目になり、1ヵ月もたたない12月18日、破傷風にかかって牢死した。

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